会社を畳む夜
銀行口座の解約予約は、午後十一時半だった。
遥香と善は、何もなくなった事務所で最後の清算書に判を押していた。三年前に二人で始めた会社は、今夜で終わる。
「このマグ、どっちが持つ?」
「会社の備品だから捨てよう」
「百円ショップだけど」
「会社のため」
資金繰りが苦しかった半年間、善は自分の貯金を入れ、遥香の給与だけは遅らせなかった。あとで知った遥香は、返済額を一覧にして毎月振り込んだ。
好きだと言えない理由は一つ。気持ちまで借金の返済に見えるのが嫌だった。守ってもらったから好きになったのではないと、数字では証明できない。
創業した頃は、床に座ってコンビニの蕎麦を分け、初めての入金通知を二人で何度も開いた。会社が傾いてから、善は冗談を言わなくなり、遥香は私的な話をしなくなった。好意まで経営判断に混ぜれば、失敗の責任を曖昧にする気がした。だから二人きりでも互いを役職名で呼び、誕生日には会社名義の領収書が出る菓子しか買わなかった。今、ホワイトボードには消し切れない売上目標の跡だけが残っている。
「俺が金を入れたこと、まだ怒ってる?」
「会社のためにしたことでしょ」
「遥香の生活を止めたくなかった」
「同じこと」
善は清算書を閉じた。「じゃあ、どうして最後まで残ったの」
「会社のため」
二度目を言うと、空の部屋にひどく響いた。
壁時計は十一時十二分。机の回収業者が廊下で台車を鳴らしている。
「それ、便利だな」
「便利だから会社は三年もった」
「俺たちは?」
遥香は答えられなかった。会社がなくなれば、善と会う理由もなくなる。その怖さだけが、清算表のどこにも載っていない。
十一時二十分。二人は印鑑をケースへ戻した。
「会社のためじゃない時間を、一度だけください」
三度目は言い直しだった。
「借りたものを返すためでも、反省会でもない時間」
善は二つのマグを見比べる。「一度で足りる?」
遥香は答えず、配車アプリでタクシーを一台だけ呼んだ。目的地を二つ登録し、片方のマグを善の箱へ、もう片方を自分の鞄へ入れた。