余白の住所録
長峰佐和は、古書喫茶「北回帰」の最後の営業日に、一冊の住所録を見つけた。
臙脂色の布表紙で、五十音ごとに薄い見出しがついている。どのページも未使用だった。今では電話番号も住所も端末が覚えてくれるから、売れ残ったのだろう。
閉店まで、あと十分。佐和の画面には、二年前に途切れた友人とのやり取りが残っていた。
最後の言葉は、佐和が送った「もういい」。友人が結婚を急かすようなことを言い、佐和は仕事を軽く見られたと思った。その後、友人から何度か謝罪が来たが、返せないまま季節が二つ巡った。今さら連絡すれば、寂しくなったから戻るようで格好が悪い。
住所録を会計へ持っていくと、店主はページを親指で弾いた。破れも書き込みもないことを確かめ、最初の一枚を開く。真っ白な紙には、古い製本糊の匂いがわずかに残っていた。
店主は帯をかけ直したが、きつく締めなかった。表紙が自然に開く余裕を残し、鉛筆を差す細い輪も塞がない。レシートには、品名の下へ「最終営業日」と印字された。
佐和は受け取ってから、会計台の端で帯を外した。
「ここで少し書いてもいいですか」
店主は閉店札へ手をかけたまま、頷いた。
佐和は「な」のページを開く。友人の名字は覚えている。住所も、昔の年賀状を何度も見たから覚えていた。けれど最初に書いたのは、住所でも番号でもなく、友人の下の名前だった。
一行だけ埋まると、白さは減ったのに、空欄が怖くなくなった。
スマートフォンを開き、二年前の「もういい」の下へ新しい文を打つ。
「よくなかった。返事が遅くなって、ごめん。会って話したい」
送信しても、すぐ既読にはならなかった。
店主は急かさず、住所録の外した帯を小さく畳んで紙袋へ入れた。閉じるためのものまで捨てずに渡す、その几帳面さが店らしかった。
佐和は返事を待たずに立ち上がった。連絡先は、返事が来る人だけを書くものではない。こちらから忘れたくない人を、忘れないために残すものでもある。
扉の外で振り返ると、店内の灯りが消えた。
住所録の一行は暗闇でも消えない。佐和はそれを鞄の底ではなく、すぐ開ける内ポケットへしまった。