保存名は明日のまま

 ノートパソコンのファンが、同じ段落で何度も速くなった。

 門脇は画面の白い文書を見つめていた。明朝提出の企画書。最終版、最終版二、最終版本当、という三つのファイルがデスクトップに並んでいる。文章を一行直すたび、自動保存の円が回り、冷却ファンがごう、と机の下へ熱を吐いた。

 部屋の照明はデスクライトだけだった。エアコンは切れていて、窓には細い雨が流れている。ファンが止まると雨が聞こえ、考え始めるとまた回転が上がった。

 午前二時十三分、共有文書の右上に小さな丸が現れた。

 同じチームの誰かが開いたらしい。名前は表示されず、灰色のカーソルだけが参考資料の欄へ動いた。門脇は手を止めた。話しかけるほどの用事はない。相手も何も書かない。

 カーソルは一つの読点の前で止まり、読点を削除した。数秒後、同じ場所へ戻し、そのまま消えた。

 眠れない誰かの迷いが、一つの読点だけ残った。

 その読点が正しいかどうかは、門脇にも分からない。朝になればまた削られるかもしれない。それでも文章の中に、迷って戻した跡があることが妙に現実的だった。企画書は完成品ではなく、何人かの判断が一時的に並んだ場所なのだ。

 門脇は笑わなかった。励まされたとも思わない。向こうも、門脇が画面の前にいるとは気づかなかったかもしれない。ただこの企画書を、夜中に一度開いた人がいた。

 ファンが低くなる。自動保存の円が止まる。雨が窓を三度たたいた。

 門脇は最後の一文を読み返した。直せるところはまだある。明朝になれば、さらに見つかるだろう。けれど完璧になるまで部屋を明るくしておくことはできない。

 ファイル名を「提出用_明日確認」に変えた。「最終」とは付けなかった。明日の自分が一度見る余地を残したまま、ノートパソコンを閉じる。

 机の上から白い光が消え、ファンはゆっくり回転をほどいた。最後に一度だけ熱い風が膝へ当たり、静かになった。

 共有文書の履歴には、誰が開いたかも、なぜ読点を戻したかも残らないだろう。門脇の迷いも、提出版では消える。消えるから無駄なのではなく、見えない試行錯誤が積み重なって一枚になる。夜の画面に残すべきなのは、完成の証明ではなく、閉じても戻れる保存先だった。

 企画書の向こうに仲間がいるから安心したのではない。誰かも迷って戻した読点があるなら、自分の未完成だけを恥じなくていいと思えただけだった。門脇は暗い部屋で、一人のまま明日へファイルを預けた。