保護者業務の朝

 木暮野千佳は、十七歳の宮地透吾を友人の遺志で引き取った。

 透吾は礼儀正しく、食器を洗い、帰宅時刻を連絡し、千佳を「木暮野さん」と呼ぶ。

 同居を始めて一年たっても、その呼び方は変わらなかった。

 千佳は無理に変えさせなかった。

「お母さん」と呼ばれる立場ではない気がしたし、透吾にも本当の母親がいる。

 けれど学校からの電話で「保護者の木暮野さん」と言われると、少しだけ背筋を伸ばした。

 ある朝、透吾が寝坊した。

 制服のボタンを留めながら、台所へ走ってくる。

「木暮野さん、パン」

「焼いてる」

「牛乳」

「冷蔵庫」

「靴下」

「知らない」

 トースターが鳴り、千佳はバターを塗った。

 透吾は立ったまま食べようとした。

「座る」

「遅刻する」

「三分で食べる。喉に詰まらせる方が遅い」

 透吾は椅子へ落ち、トーストをかじった。

 焦げたパンとバターの香りが、慌ただしい台所へ広がる。

 牛乳を飲み、鞄を持って玄関へ向かう。

 その途中、透吾が振り返らずに言った。

「千佳さん、今日、帰り七時」

 千佳は一瞬、返事が遅れた。

「分かった」

 透吾は気づいたのか気づかなかったのか、そのまま学校へ行った。

 夕方、千佳は七時に合わせてカレーを温めた。

 鍋を混ぜながら、呼び方のことを考えた。

 母ではなく、名字でもなく、名前。

 家族になる途中の、ちょうどよい距離に思えた。

 七時十分、玄関が開く。

「ただいま」

「おかえり」

 透吾は台所の匂いを嗅いだ。

「カレー?」

「朝、パンしか食べてない人用」

「千佳さんも食べるでしょう」

「保護者も空腹になる」

 二人で皿へよそった。

 透吾は福神漬けを多く載せ、千佳は少なめ。食べながら、学校の先生がネクタイを裏返しにつけていた話をした。

 呼び方は、そのあとまた「木暮野さん」へ戻ったり、「千佳さん」になったりした。

 千佳は訂正しなかった。

 夜、食器を洗う透吾へ、千佳は声をかけた。

「透吾、明日の朝は起こさないからね」

「千佳さん、六時半でお願いします」

「依頼が早い」

「保護者業務」

 二人は笑った。

 台所にはカレーの香辛料と、洗った皿の湯気が残った。

 家族の呼び名は一度で決まるものではない。

 何度も口にして、照れたり戻したりしながら、二人の家に馴染む音を探していけばよかった。