俵むすびを崩す
神代沙月は区役所の待合椅子で、母の俵むすびを食べていた。細長い三個が、白い布巾にまっすぐ並んでいる。今日は婚姻届を出す日だと、母は思っている。
沙月と恋人は、届を出さないことに決めた。どちらか一方の名前にそろえる話になるたび、沙月の胸が動かなくなったからだ。恋人は待つと言った。二人で暮らすことは変えず、形だけを急がない。そう決めたのに、母には言えなかった。
母は沙月の結婚を、自分の子育ての終着点のように喜んでいた。新しい名字で呼ぶ練習までしている。今日を取りやめれば、恋人との関係まで否定されたと思うだろう。母の喜びを壊さないために、自分の名前を差し出すべきなのか。その迷いを誰にも言えなかった。
布巾を開くと、炊きたての米の香りがまだ残っていた。俵むすびは指で持つと温かく、表面の粒が少しだけ掌についた。母は形が崩れるのを嫌い、端から小さく噛むよう教えた。
一個目は教わった通りに食べた。二個目も、角を残さずきれいに減らした。膝の上には、記入済みの婚姻届がある。沙月の姓には二重線を引く場所がなく、どちらか一つを選ぶ欄だけが白く残っていた。
三個目を手に取り、両端から押した。俵の形がつぶれ、米粒が指の間から少しはみ出した。沙月はそれを丸く握り直そうとしたが、途中でやめた。不格好な平たい塊のまま、二つに割る。
半分を食べ、半分を布巾へ戻した。全部食べたふりもしない。届けを出したふりもしない。
沙月は受付番号の紙を破り、婚姻届と一緒に封筒へしまった。母へのメッセージには、「今日は出さない。二人で決めた」とだけ打った。理由を説明する長文は消した。
布巾へ戻した半分には、指の跡がついていた。母が見れば、行儀が悪いと言うかもしれない。沙月はその跡を直さなかった。二人の生活を母の望む形へ握り直さないことを、まず小さな米粒で練習するようだった。
最後に残した半分を、区役所の外へ出てから食べた。形は崩れていたが、塩加減は三個とも同じだった。