傷のある銅鏡

崔嵐石は、銅鏡の傷へ墨を塗った。

鏡は掌ほど。中央を斜めに走る傷が、反射光を二つに割る。かつて妻が落としたものだ。妻はもういないが、傷だけが役に立つ夜が来た。

白嶺砦から退く味方は六百。峠の下では敵将・姜黒雲の軍が待つ。北の援軍が来るという噂だけが、敵を慎重にさせていた。

「噂を光にする」

嵐石は部下の朴蓮へ鏡を見せた。

砦の信号は、鏡光一つで「退却」、二つで「援軍到着」。傷のある鏡なら、一度傾けるだけで光が二条に分かれる。山上の敵斥候が見れば、北軍が尾根へ着いたと思う。

「ですが、月では弱い」

「月を使わない」

嵐石は砦の最後の油壺へ火を入れた。炎を背に鏡を向ける。二本の光が闇を切り、北の岩壁へ走った。

姜黒雲は信号の決まりを知っている。三年前まで同じ王に仕え、嵐石と同じ卓で酒を飲んだ男だからだ。互いの癖を知る者同士の戦では、新しい策より古い記憶の方が深く刺さる。知っているからこそ、罠を疑う。

朴蓮が言った。

「敵が偽装と読めば、すぐ来ます」

「読む。だから二度目は出さない」

援軍なら、到着後も配置確認の光を返すはずだ。だが今夜は最初の二条だけで終える。姜は「援軍が潜んで光を控えた」と考えるか、「鏡の細工だ」と考えるか。その迷いだけを買う。

砦の裏門から、味方が一列で山道へ降りた。鎧を布で包み、咳をする者の口を押さえる。嵐石は鏡を伏せたまま待った。

敵陣の松明が動いた。半数が北へ向き、半数が峠に残る。

「割れました」と朴蓮。

「姜は賭けなかった。賭けない将は長生きする」

「我らも助かります」

「長生きとは限らん」

負傷者を背負った兵が転び、後ろの者が無言で担ぎ直す。最後の兵が裏門を抜ける。嵐石は油壺を蹴り倒し、砦を炎で満たした。敵に鏡の仕掛けを渡さぬためだ。

二人で細道を走った。背後から角笛が鳴る。姜が偽装を悟ったらしい。だが追手は半数だけだった。

夜明け前、退却軍の先頭が白嶺城へ着く。城壁の見張りが鏡光を一つ返した。

崔嵐石は傷のある銅鏡を掲げた。

城内で閂が抜かれ、東門が開いた。