傷口が描いた銀の簪
白薔薇夜会で、男爵令嬢の頬が突然裂けた。
彼女は血を押さえ、ミラベルの扇を指さした。
「すれ違った瞬間、扇から刃の風が飛びました」
婚約者ガーヴィンは扇を踏みつける。
「嫉妬で顔を傷つける女とは婚約を続けられない。ミラベル・オルディナ、破棄を言い渡す」
扇は、病院の暑さを和らげるためミラベルが改良した無刃の送風具だった。刃の術式を組み込めないよう、内部の魔法路まで公開している。それでもガーヴィンは構造を確かめず、床で踏み折った。彼女が何年もかけて安全を証明した道具より、涙を浮かべた一言のほうを選んだのだ。
ミラベルは頬の傷を一目見て、風魔法ではないと分かった。医療研修で何百もの切創を見分けてきた目だった。ガーヴィンが嫌ったその経験が、今は彼の雑な筋書きを崩す。切り口が浅すぎ、端に銀粉が残っている。
「治癒魔導士ペトロス。傷痕写本を開いてください」
ペトロスは白い本を床へ置き、頁を開いた。診断を告げず、彼女に術式を譲る。傷痕写本は、傷が生まれた瞬間の凶器と動きを、一枚の像として記録する医療用の証拠魔法だ。
ミラベルが頁へ手をかざすと、銀の線画が浮かんだ。男爵令嬢自身の手が髪から簪を抜き、柱の陰で頬へ滑らせている。簪の先には、傷を大きく見せる血紅石まで嵌められていた。
「そんな、わたくしは動転していて……」
ガーヴィンは彼女を庇うように前へ出たが、広間の視線を見て足を止めた。そしてミラベルへ向き直り、婚約破棄は一時の誤判断だったと言う。
「一時で、わたくしは犯罪者にされました」
「謝る。だから戻れ」
「命令形の謝罪を、初めて拝見しましたわ」
ミラベルは踏まれた扇から婚約飾りだけを外し、ガーヴィンの足元へ置いた。
「破棄を受諾します。わたくしの顔も人生も、あなたの体面を整える道具ではありません」
元婚約者に背を向ける。ペトロスが、証拠医療院を共に作ろうと手を差し出した。ミラベルは傷のない未来を待つのではなく、治す側を選んで、その手を取った。