先生の忘れもの
斑鳩琢磨が第二ボタンを外せずにいると、黒岩幹子先生が職員室から裁ち鋏を持ってきた。
「糸、丈夫すぎだろ」
「制服屋さんを褒めなさい」
卒業式のあと、教室には二人しか残っていなかった。琢磨は校門で待つ相手にボタンを渡すつもりだったが、指で引いても歯で噛んでも取れず、戻ってきたのだ。
幹子は老眼鏡を下げ、胸元の糸を慎重に切った。
「先生も、もらったことある?」
緊張をごまかすために聞くと、鋏が止まった。
「あるよ」
「意外」
「失礼ね」
引き出しから卒業生名簿を片づけながら、幹子は一つの小箱を出した。中には、艶の消えた金属のボタンが入っている。今の制服とは形が違った。
琢磨が箱をのぞくと、底に古い写真もあった。若い幹子と、顔の半分だけ写った男子が校門前で笑っている。
「三十年以上、返しそびれてる」
「返すものなの?」
「渡した本人が、次の日に『やっぱり意味を知らなかった』って言ったの」
琢磨は笑いかけて、幹子が笑っていないことに気づいた。
「その人、今は?」
「毎年、年賀状だけ来る。今年、同窓会をやるって」
窓の外から、琢磨を呼ぶ声がした。校門の辺りで、彼の待ち人である奥津珠生が卒業証書の筒を振っている。門前の人波は薄くなり、待たせられる時間も残り少なかった。
幹子は切り取った第二ボタンを琢磨の掌へ載せた。
「意味は、渡してから決めてもいい。でも、言葉まで相手任せにしないこと」
琢磨はうなずき、教室を飛び出しかけた。
「先生も返すの?」
振り向いて聞くと、幹子は古いボタンを制服のポケットへ入れた。
「返さない。今度こそ、意味を聞く」
琢磨が階段を駆け下りる背後で、幹子は年賀状に書かれた番号をスマートフォンへ入力した。
校門に着くと、珠生は「遅い」と頬を膨らませた。琢磨は息を整えず、ボタンより先に言葉を渡した。
「好きだった。これからも、たぶん」
掌の黒い丸を見て、珠生は笑った。
「先生に切ってもらった跡、ずいぶん不格好」
糸は長く残っていた。琢磨はそれを、言い残しのない証拠だと思った。
その夜、琢磨のもとへ幹子から短いメッセージが届いた。〈意味は聞けました。思っていた通りでした〉。珠生の返事を何度も読み返していた琢磨は、〈先生も卒業おめでとうございます〉と返した。
既読のあと、艶の消えたボタンの写真が一枚届いた。古い糸は、もうきれいに切られていた。