六ミリの余白

坂巻亮はエレベーター保守会社の新人で、老朽マンションのブレーキ検査に立ち会った。更新工事の完了決裁では、検査表へ現場担当印を押すことになっていた。

ブレーキ隙間の基準は〇・六ミリ以下。提出表は〇・六で合格。工事部長の長谷部は、管理組合理事長へ最終支払いを求めた。

亮が現場で差し込んだ隙間ゲージは六・〇ミリだった。十倍である。

「小数点を書き忘れただけだろう」と長谷部は言った。「正しい値は〇・六だ」

亮は手書き原票を出した。数字は6.0。上から小数点を左へ移すよう赤鉛筆で印が付き、訂正者欄には長谷部の印がある。しかし訂正印の日付は検査前日だった。

理事長は、機械が動いているなら問題ないのではと尋ねた。

亮は防犯カメラの停止試験映像を再生した。かごは基準位置を十二センチ越えて滑っている。会議用報告書では、映像の下端が切られ、床の基準線が見えない。

長谷部は映像の撮影角度のせいだと主張した。

亮はゲージの貸出台帳を示した。〇・六ミリの薄板は検査日に別現場へ貸出中で、この現場へ持ち込まれたのは六・〇ミリだけ。検査表に記された器具番号も六・〇用だった。

「一桁なら直せる。お前の評価もな」と長谷部は低く言った。

亮は現場担当印をケースから出し、押印欄の横へ置いた。押せば自分も六ミリを〇・六と認めることになる。

亮は六・〇ミリのまま運転した場合の停止距離計算も出した。定員時には基準の七倍滑り、最下階で緩衝器へ接触する可能性がある。長谷部は机上計算だと切り捨てたが、前日の試運転記録には『異音、再調整要』と整備員の署名が残っていた。

管理組合の技術委員は、十二センチ滑った映像をもう一度再生させた。停止位置の赤線は、今度は画面から切られていなかった。

管理会社の担当者が振込承認票を引き寄せ、赤字で「保留」と書いた。長谷部の印は乾いていたが、更新工事の残金決裁は六ミリの余白を越えられなかった。