冬を知らない梨

日下石佐緒の梨畑には、冬が来なかった。

気候崩壊で村の果樹が枯れたあと、自治体は農家に《郷土景観保存層》を配った。眼鏡をかければ、焼けた土は湿った黒土になり、枯れ枝には白い花が咲く。収穫期には黄金色の梨が実り、手を伸ばすと重さと香りまで返った。

佐緒は仮想の梨を毎年収穫した。果実の感覚データは都市へ売られ、観光客は自宅にいながら「昔の農村体験」を買った。現実の佐緒の手には何も残らなかったが、口座には入金された。AIは虫食いや台風の傷を自動で消し、父から教わった選果の勘も不要になった。佐緒が木へ触れなくても、理想の実だけが毎年増えた。風だけは補正されず、枯れ枝を乾いた音で鳴らした。

孫が遊びに来た日、梨をもぐたびに鳴る祝福音を聞いて言った。

「梨って、チリンって鳴るんだね」

佐緒は笑えなかった。その音は、利用者の満足度を上げるためAIが付けたものだった。孫は土の匂いも、虫食いも、熟れすぎて指が沈む感触も知らない。

彼は保存層を外した。

畑は灰色だった。幹は裂け、灌漑管は錆び、向こうの山には防風林もなかった。孫は「読み込み失敗?」と尋ねた。

「こっちが、今だ」

孫はしばらく黙り、枯れた木に触れた。「痛そう」

翌年、佐緒は仮想収穫の契約を更新しなかった。収入は途絶え、村の保存事業者から非難された。「景観を消せば、村そのものが存在しなくなる」と言われた。

佐緒は一本だけ残った古木の根元を掘り、耐暑性の台木を接いだ。成功率は低かった。AIは、仮想梨の品質を改善する方が合理的だと提案した。

冬、孫と二人で枝を包んだ。風は冷たく、画面の雪より痛かった。春になっても芽は出ず、佐緒は失敗を覚悟した。

四月の終わり、接ぎ目の上に緑の点が一つ現れた。

孫は歓声を上げ、耳を近づけた。

「鳴らないね」

「ああ」

佐緒は笑った。「だから、よく見ておけ」

実るまで何年かかるか分からない。梨にならないかもしれない。それでも二人は、音のしない小さな芽を、どんな完成品より長く見つめた。