冷めないうちに
「お食事は冷めないうちに」
食堂付き侍女ユノアの口癖を、第三王子カシウスは聞き流していた。
彼女が運ぶ皿はいつも適温で、パン籠は空になる前に満ち、こぼしたソースは叱られる前に消える。王子にとっては、食べる速さを急かす少々無愛想な侍女にすぎなかった。嫌いな豆を皿の端へ避けても、彼女だけは見て見ぬふりをしてくれる。
その昼、銀の蓋を開けると、肉料理の上に黒い蠍がいた。
ただの虫ではない。
尾が七つに分かれ、それぞれの針に王殺しの紫毒が滴っている。召喚暗殺獣《葬宴》。目が合った者の心臓へ瞬時に跳ぶため、護衛を呼ぶ暇などない。
蠍が跳んだ。
ユノアがスープ匙で皿の縁を一度叩く。
ちん、と澄んだ音がした。
カシウスが瞬きをした時、蠍はいなかった。
料理は崩れず、毒の染みもない。ユノアは何事もなかったようにナプキンを畳んでいる。
王子だけは、杯の表面に映った一瞬を見た。
匙の音で蠍の七本の尾が同時に止まり、ユノアの手が残像すら残さず七度走る。針だけが切り離され、獣の魔力核は塩粒ほどに砕かれ、銀蓋の裏へ封じ込められた。跳躍から消滅まで、スープの湯気さえ乱れていない。
七つの急所を一拍で断つ《食卓刃》。
皇帝の宴へ給仕として潜り込み、千人の前で標的だけを消した伝説の暗殺者《晩餐婦人》の技だ。
ユノアは銀蓋を盆へ戻した。その裏に張りついた黒い粉をパン屑と一緒に集め、暖炉の浄化火へ捨てる。紫毒の一滴はナプキンで吸い、毒消し酒へ浸す。布は白へ戻り、卓上には何も残らない。
「いまの、見たぞ」
カシウスが声を潜める。
「何をご覧になりましたか」
「七尾の葬宴だ。それをお前が――」
「胡椒が跳ねただけでしょう」
王子は皿を見る。肉料理には確かに黒胡椒が振られていた。証拠はない。護衛たちは扉の外で、昼食が一度死にかけたことさえ知らない。
ユノアはソースの乱れを匙で直し、冷めかけた皿を小さな保温陣へ載せた。
それから王子の前へ戻し、最初よりわずかに強い調子で告げた。
「お食事は冷めないうちに」