切れない二ミリ
砂原理玖が印刷会社へ戻る途中、化粧品会社から電話が入った。
「新商品の案内を一万部、明朝の展示会へ。今夜入稿します」
通常なら三日は必要だった。工場長は電話越しに無理だと首を振ったが、営業部長は「特急料金で受けろ」と言った。
午後七時、届いたデータを理玖は画面で拡大した。金色のロゴが紙の端ぎりぎりに置かれ、背景には塗り足しがない。このまま紙を切る位置が二ミリずれれば、ロゴの輪が欠ける。さらに商品写真はモニター用の鮮やかな色で、印刷すると肌色が灰色に沈む。
顧客は「時間がないから色校は不要」と言った。
理玖は一万部をそのまま機械へ流さず、事務所の小型機で十部だけ出した。営業部長は遅れると怒ったが、実物を顧客へ届けるため、理玖はタクシーに乗った。
理玖は案内に載る二つのQRコードも自分の携帯で読み取った。一つは古い商品ページへ飛び、もう一つは光沢紙の反射で読みにくかった。担当者と相談し、リンクを直して周囲に白い余白を置いた。急ぎの印刷ほど、刷る前に試すものが増える。
担当者は紙を見て、長く絶句した。金色は黄土色になり、ロゴの右端が一部切れていた。
「画面ではきれいだったのに」
「画面は光、紙はインクです」
理玖はデザイナーを責めず、その場で修正手順を決めた。背景を外側へ三ミリ延ばし、ロゴを内側へ動かす。写真の色は一度だけ補正する。展示会の開場分千部は小型機で先に作り、残り九千部は色を確認してから本機で刷る。
単価は上がるが、朝に必要なのは一万部全部ではない。初日の受付数を聞くと、千部でも余る予定だった。
午前二時、先行分が箱に収まった。担当者は切れていないロゴを指でなぞった。
「一万部刷ってから気づいていたら」
「明朝は配るものではなく、謝るものを持って行くところでした」
トラックが展示会場へ出た直後、工場の受信機が鳴った。
次の入稿は、昼までに五万部の価格表だった。
理玖は先行分の色校を机へ置き、今度は数字の桁を拡大した。