別荘一軒分

羽鳥叶恵が義母の介護を断ると、夫の兄妹は口をそろえて冷たいと言った。

義母の須美は軽い認知障害こそあるが、まだ自分の希望をはっきり話せる。見守り付きの住まいへ移りたいと言っていた。ところが長男の昂志と長女の梨江は、海辺の別荘も定期預金も残したまま、叶恵に同居介護をさせようとした。

「施設なんてお母さんがかわいそう」

梨江は言う。

「叶恵さんなら仕事を辞めても困らないでしょう」

「家の財産を守るのも嫁の役目だ」

昂志が続けた。

叶恵は結婚して十五年、家族旅行の別荘で一度も客室を使わせてもらえなかった。料理と掃除が終われば、物置横の小部屋で眠った。それでも須美の前で恨みを語ることはしなかった。須美自身も以前は「嫁は働いて当然」と物置の鍵を渡した人だったが、夜を一人で過ごす怖さを知ってから、子どもたちの言葉を黙って聞くようになっていた。

介護相談の日、叶恵は須美へだけ尋ねた。

「お義母さんは、どこで暮らしたいですか」

「人がいるところ。夜、一人にならないところ」

昂志が遮る。

「母さんは分かってないんだ。別荘を売ったら損だぞ」

叶恵は施設の資料を閉じた。

「私は介護者にはなりません。ただし、お義母さん自身の希望を実現する手続きなら手伝います」

須美は叶恵の手を握り、海辺の別荘を売る委任状へ署名した。医師も判断能力に問題がないことを確認している。

梨江が青ざめる。

「待って。あそこは将来、私たちが使うつもりで――」

「私の家を、私のために使うの」

須美は初めて娘の言葉を遮った。

数日後、家族全員の前で不動産会社から連絡が入った。希望額を上回る買付けがあり、売却代金だけで施設の入居一時金と十年以上の利用料を賄えるという。

昂志は叶恵をにらんだ。

「お前が介護すれば、売らずに済んだ」

「私の人生は、あなたたちの相続を守るための無料資産ではありません」

須美が契約画面の《承諾》を押す。

別荘の売却と施設入居が、同時に確定した。