前の借り手
斎槻由宇が借りた本の貸出カードには、教頭の名前があった。
旧式のカードが残っている、古い地理紀行だった。最後に借りられたのは三十年前。
『二年五組 鍬形隆文』
今の教頭と同姓同名だった。
厳しいことで有名な教頭が、生徒だったころに何を読んだのか。由宇は妙に気になり、本を借りた。
頁をめくると、山岳写真の間から一枚の紙が落ちた。
『土曜、駅裏の喫茶店。待ってます。美津』
古いメモだった。
由宇は友人へ見せ、昼休みいっぱい推理した。
教頭の初恋。秘密の待ち合わせ。行けなかった約束。三十年眠った手紙。
「本人に返そう」
「怒られる」
「だからおもしろい」
放課後、二人で職員室へ行った。
教頭はメモを見るなり、眼鏡を外した。
「どこにあった」
「この本です」
「読んだのか」
「本は少し。手紙は全部」
長い沈黙のあと、教頭は笑った。
学校で一度も見たことのない、口を開ける笑い方だった。
「美津は、私の姉だ」
由宇たちは顔を見合わせた。
教頭が忘れた弁当箱を届けるため、駅裏で待っていたらしい。恋文ではなかった。
「じゃあ、行ったんですか」
「行かなかった」
「何で」
「この本を読んでいて、時間を忘れた」
姉は怒り、教頭は夕食を抜かれた。その翌日、腹いせにメモを本へ挟み、忘れたのだという。
「三十年も延滞?」
「返した。メモだけ残った」
「教頭先生も返却遅れるんですね」
「一日だ」
「記録します」
教頭は咳払いをして、いつもの顔へ戻った。
「その本はおもしろいぞ。特に百二十頁の谷」
由宇は家で百二十頁を開いた。
谷の写真の余白に、小さな鉛筆の字があった。
『ここへ行く。鍬形』
翌日訊くと、教頭は卒業後、本当にその谷まで歩いたという。
由宇は進路希望に「未定」としか書いていなかった。
本を返す日、貸出カードの空白へ自分の名前を記した。その下へは何も書けない。
すると教頭が、カウンター越しに言った。
「行き先は、本を返してから決めても遅くない」
由宇は借りた本を棚へ戻した。
三十年前の生徒と自分の名前が、一枚のカードで上下に並んだことが、なぜか少し心強かった。