勇気は母の顔をしていた

婚礼前夜にだけ開く市場で、ハルヴァは勇気の小瓶を見つけた。琥珀色の液体が、掌の中で心臓のように脈打っている。

「飲めば、一度だけ、恐れて言えなかった言葉を言える」

薬売りは瓶の栓を撫でた。

「代金は、あなたが選ぶ恐れを一つ。払った恐れは、生涯戻らない」

明日の婚礼で、ハルヴァは「誓います」と答えることになっていた。相手を憎んではいない。穏やかで、家も豊かで、母が望んだ通りの人だ。ただ、彼の隣に立つ未来を思うと、自分が薄い紙に挟まれていくように息苦しかった。

言いたいのは「誓えません」の一言。

それだけなのに、母の顔を思うと喉が閉じる。

父が死んでから、母は縫い物で娘を育てた。指を曲げたまま眠る夜を、ハルヴァは何度も見た。良い縁談が決まった日、母は初めて人前で泣いた。

「これで、あなたを不幸にしなかったと思える」

今夜も母は、婚礼衣装の裾を直している。娘の寸法を誰より知る指で、逃げ道まで縫い閉じるように。悪意がないからこそ、拒む言葉は刃になる。

その安堵を壊すのが怖かった。

薬売りは恐れを小さな札に書くよう言った。ハルヴァは候補を並べた。

孤独になる恐れ。貧しくなる恐れ。人に笑われる恐れ。どれを失っても、明日の一言は言えるかもしれない。

けれど簡単な恐れを払えば、勇気は借り物のままだと思った。

彼女は最後に書いた。

――母を失望させる恐れ。

「これを失うと、お母さまを愛さなくなるわけではない」

薬売りが言う。

「ただ、その人の期待を、自分の命令と取り違えなくなる」

それは救いのようで、別れのようでもあった。母の喜ぶ顔を羅針盤にしてきた自分は、どこへ行くのだろう。

市場の外では、婚礼衣装を運ぶ馬車が待っている。白い布の端が夜風にはためいた。

ハルヴァは瓶を開けた。琥珀の匂いの向こうに、幼い日、母の膝で眠った温度がした。

最後に怖がっておきたくて、母が泣く顔を思い浮かべる。胸が縮み、手が震えた。

その震えごと、ハルヴァは飲み干した。

空の瓶を下ろすころには、母の涙を想像しても、足はもう止まらなかった。