匂いを失った料理長の柚煙湯

 宿《香り坂》の女将ナディアは、獣人料理長ロッカが鼻ではなく目で湯気を追うのを見た。

 王宮厨房の火災で煙を吸って以来、彼は何の匂いも分からない。味は舌に残っているが、焦げも腐敗も香草の頃合いも判断できず、明日の戴冠晩餐を任せられないと通告された。

「料理人が鼻を失えば、ただの包丁持ちだ」

「では、鼻を起こしましょう」

 ナディアが出した商品は《柚煙湯》一回だけ。湯船の縁に置いた黄色い実も、一つだった。

「薬草を何種類も入れないのか」

「眠っている感覚を大声で起こすと、また怯えます。香りは一つで十分です」

 ロッカが肩まで沈む。ナディアは柚の皮を一筋だけ湯へ落とした。

 最初、彼は無表情だった。やがて獣耳がぴくりと動く。

「何か感じましたか」

「冷たい」

「香りです」

「香りが、冷たい?」

 煙に焼かれた鼻の奥へ、柚の鋭さが細い風のように通った。初めは痛みに似ていた。次に、冬の台所で母が皮を削っていた記憶が戻る。香りは知識ではなく、身体の奥に残っていた道だった。

 ロッカは鼻先を湯気へ近づけ、逃げずに一度吸い込む。次の瞬間、大きなくしゃみをした。湯気が揺れ、伏せていた耳が立つ。

「苦い皮。酸っぱい果肉。それから、お前の袖に小麦粉。廊下の古木、炭火、雨の前の土」

 一度に戻った匂いに目を潤ませながらも、彼は一つずつ名前をつけた。

 ナディアは笑って腕を払った。

 湯上がりの廊下で、ロッカは足を止める。

「厨房の火を弱めろ。砂糖が焦げる半歩前だ」

 障子二枚向こうの小鍋を、匂いだけで言い当てた。

 翌夜、戴冠晩餐は一皿も戻されなかった。火災後に外されていた料理長の銀章も、その場でロッカの胸へ戻された。閉店間際、ロッカ本人が料金を払いに来る。銀貨とともに、小さな予約札を三枚置いた。

「三回とも私の分だ。大仕事の前に鼻を整える」

「一つの香りで?」

「一つだから、迷わない」

 料理長が満足そうに鼻を鳴らして帰る。

 ナディアが新しい柚を一つ籠へ置くと、入口の風鈴が季節外れに鳴った。