午前零時の試着室
午前零時で閉店する古着店に、佐和が来たのは十一時四十二分だった。
「これ、返しに」
差し出されたのは、黒いジャケット。三年前、杏奈の店が開店した日に佐和へ貸したものだった。別れたあとも返ってこなかったので、もう売上台帳から消してある。
「今さら?」
「今日で店、なくなるって聞いたから」
シャッターが半分下り、店内には二人しかいない。母が車で荷物を取りに来るまで十五分。
佐和はジャケットをハンガーにかけた。
「まだ着られるかな」
「試せば」
狭い試着室へ入り、カーテン越しに袖を通す音がした。杏奈は逃げるようにレジを締めた。
別れた理由は一つだった。杏奈が家族に二人の関係を言えなかったこと。母が店を手伝いに来るたび、佐和を「ただの常連」と紹介した。佐和は秘密でいることに疲れ、杏奈は引き止められなかった。
今も母には話していない。好きだと言えば、また隠れて付き合ってほしいと頼むことになる。それだけはできない。
カーテンが開いた。黒いジャケットは、三年前より佐和の肩に馴染んでいた。
「似合ってる」
「前もそう言った」
「服の感想だから」
「うん。いつも服の話だった」
佐和は鏡の前で襟を整える。外から車のクラクションが短く鳴った。母が着いた。
「それ、持って帰っていいよ」
「もう閉店するから?」
「売り物じゃないし」
「私が持ってても、困らない?」
「困らない」
「本当に?」
「似合ってるから」
二度目は、声が小さくなった。
佐和はジャケットを脱ごうとした。「じゃあ、買う。借りたままにはしたくない」
「お金はいらない」
「また曖昧にする?」
レジの時計は十一時五十七分。母から『裏口にいるよ』とメッセージが来た。
杏奈は試着室のカーテンを閉めた。布一枚の向こうなら、本音を言える気がした。
「まだ好き。でも、今のままじゃ言っちゃだめだと思ってた」
「今のままって?」
「あなたを、いないことにするまま」
返事はなかった。三秒後、佐和がカーテンを開ける。
「似合ってる?」
三度目を求めるように、黒い襟へ触れた。
杏奈はうなずき、店の照明を落とした。シャッターの脇から外へ出ると、母が段ボールを抱えて立っている。
「お友達?」
昔と同じ質問だった。
杏奈は説明の言葉を探さなかった。佐和が帰ろうとした手をつかみ、そのまま段ボールを持つ母のところまで歩いた。
黒いジャケットの袖と杏奈の指が、店の最後の明かりの下で離れなかった。