取り消せない一文
家族との夕食を終え、澪花は駅のホームで母からのチャットを読んだ。
〈今日はみんなで食べられて楽しかったね〉
店では、妹が転職を報告した。母は拍手し、そのあと澪花の肩を軽く叩いて、「この子は慎重すぎて動けないから」と笑った。澪花も笑った。テーブルの下で、爪が手のひらに食い込んでいた。
電車の到着案内が流れる。澪花は返信欄へ打った。
〈妹の前で、私を不器用とか臆病とか言わないで〉
送信した瞬間、心臓が跳ねた。長押しして「送信取消」を選びかける。母が読む前なら、なかったことにできる。
画面に既読がついた。
〈そんな言い方してないでしょう〉
続けて〈冗談も通じなくなったの?〉。
澪花は電車を一本見送った。ホームに風が走り、コートの裾が揺れる。
〈言葉が正確かどうかじゃなくて、比べられて笑われたのが嫌だった〉
母からの返事は長く来なかった。澪花は「もういい」と送ろうとしてやめた。ここで引き取れば、また母の冗談になり、自分の気にしすぎになる。
次の電車が近づいたころ、通知が鳴った。
〈何と比べたか、正直覚えてない〉
胸が冷えた。だが、そのあとにもう一行来た。
〈覚えてないことが、あなたには嫌なんだね〉
謝罪ではない。理解とも呼びきれない。
〈そう。次から私を説明に使わないで〉
〈分かった。気をつける〉
澪花は送信取消の画面を閉じた。最初の一文はチャットに残ったままだ。母の記憶から消えても、自分の嫌だったことまで消す必要はない。
店で母が笑ったとき、妹は箸を止めて澪花を見た。助けるでも同意するでもない、困った目だった。その顔を見て、澪花は妹と争っていたのではなく、二人とも母の説明に使われていたのだと気づいた。帰り際、妹から〈今日はありがとう〉とだけ来ていた。澪花はまだ返さなかった。まず母へ、自分の席から言うべきことを言いたかった。
到着した電車へ乗り、窓際に立つ。発車すると、食卓のあった街が後ろへ滑った。澪花はチャットを削除せず、通知だけを閉じた。