合鍵の音

灯里の父、泰岳は鍵を開けるのが遅い。鍵穴の前で一度向きを間違え、老眼鏡を探し、結局は指先の勘で差し込む。だから廊下で金属が三度鳴れば父だと分かる。

退職後、泰岳は木曜だけ町の将棋会へ行く。夕方には帰ると言いながら、感想戦が長い。灯里は先に食べればいいのだが、父がいない食卓で煮魚を一人分だけ崩すのが苦手だった。

その木曜、鰈は六時に煮上がった。生姜の匂いが居間まで流れ、七時には煮汁の表面に薄い膜が張った。灯里は編み物を始めたものの、十段目で目を数えられなくなった。父は携帯を鞄の底へ入れるので、鳴らしてもまず気づかない。

七時四十分、隣家の自転車が帰る。八時、上階の子どもが風呂で歌う。八時十五分、廊下で、ち、と音がした。続いて、かち、からり。

灯里は立ち上がらず、編み針を動かした。扉が開き、泰岳が冷気と煙草屋の前の匂いを連れて入る。

「今日は勝ったの」

「二勝三敗。最後の一局が惜しくてな」

負け越しても声が明るい。灯里は鰈を温め直し、針生姜を新しく載せた。泰岳は骨をきれいに外しながら、勝てなかった手を箸で食卓に描く。

話の筋はよく分からない。それでも灯里は、父の鍵の音から始まる木曜の夕飯が嫌いではなかった。煮汁の甘い香り、湯呑みに注ぐ番茶の音。編みかけの毛糸は膝の上で、待っていた時間を柔らかく巻き取っていた。

泰岳は食後、合鍵を食卓へ置き、「滑りが悪い」と油を差そうとした。灯里は老眼鏡を掛ければ済むと言い、鍵を取り上げる。小さな溝には、長年の手垢が鈍く光っていた。編み物は十二段目まで進み、二段だけ数が合わない。ほどこうとすると父が「それくらい残せ」と言う。将棋の負け筋のように、間違いにも跡が要るらしい。灯里はそのまま針を置き、針生姜の香りが薄れるまで茶を飲んだ。

翌週までに、灯里は鍵へ明るい色の紐を結ぶつもりだった。父が暗い廊下でも一度で家を開けられるように。