名刺を二枚だけ

牧野沙都は、名刺入れの中身を二枚だけにした。

一枚は今の会社の名刺。肩書きはカスタマーサポート。もう一枚は、内定先の採用担当が最終面接でくれた名刺だ。そこには「事業企画室」とある。

企画職への転職は、三年前からの目標だった。内定を報告した翌日、今の上司は沙都を会議室へ呼び、「辞めるなら言うけど、来期から企画チームへ異動させる予定だった」と告げた。

予定だった。その言葉は便利だ。まだ書類はない。けれど上司は、異動が確約されるなら残るかと尋ねた。

沙都のスマートフォンには、二件の下書きがあった。内定先への承諾メールと、上司への残留条件。年収だけなら転職先が上。仕事の内容なら、どちらも企画。通勤、福利厚生、人間関係まで表にしても、答えは同点のままだった。

二十九歳の転職は、次こそ長く働ける場所を選ぶべきだと思っていた。だから一度選んだら、迷った事実さえ消したかった。

沙都は内定先の名刺を裏返した。面接で「顧客対応の経験を企画に生かせる」と言われた言葉は嬉しかった。一方、今の会社には、実際の顧客の声と、自分が改善したい仕組みがある。

残ることは臆病だろうか。転職することは勇敢だろうか。動いた距離で決断の価値を測るのは、もうやめたかった。

条件を書き出した文面は、転職先への承諾メールより長くなった。残る側がこんな要求をしていいのかと何度も削ったが、好意で異動させてもらうのではない。外へ出る覚悟と引き換えに、自分の働き方を契約し直すのだと思い、削った行を戻した。

沙都は上司へ、異動日、業務範囲、評価基準を文書で提示してほしいと返信した。「確約できない場合は退職します」と一行添える。

翌日、正式な異動通知が届いた。沙都は内定先へ電話をかけ、感謝を伝えて辞退した。担当者の残念そうな声に、胸が痛んだ。

通話後、二枚の名刺を見比べる。沙都は内定先の名刺を捨てず、名刺入れの後ろへしまった。

残ったのは、転職しなかった自分ではない。外へ出る選択肢を作り、そのうえで条件を選び直した自分だ。その事実から逃げないため、名刺は二枚のままにした。