名前を呼ばない常連
牧瀬奈々がカフェ〈無記名〉を選んだのは、店員が客の名前を呼ばないからだった。
注文番号もない。バリスタの御影千紘は、白紙のスリーブへカップの特徴だけを描く。月、梯子、魚。客が受け取るまで、名前の欄は空白のまま。
「名前は、飲み終わってから」
それが千紘の決まりだった。
奈々は毎回違う名でポイントカードを作った。奈緒、七海、真奈。けれど注文はいつも、低脂肪乳のフラットホワイト、温度は低めだった。
その日、奈々は相談があると言った。
「付き合い始めた人に、昔のことを全部話すべきでしょうか」
「全部、とは?」
「名前を変えた理由です」
千紘は質問を重ねなかった。レジ横に積まれた三枚のカードを出す。奈々が過去に作り、途中で捨てたものだった。違う名前の上を同じ筆圧で塗りつぶしてある。
二年前、別れた恋人が職場や実家へ現れるようになった。転居し、勤め先を変え、家庭裁判所の手続きを経て姓も変えた。新しい恋人には、以前の姓をまだ教えていない。隠していることが、相手をだましているように思えた。
「信頼しているなら、全部見せるものじゃないですか」
「部屋の鍵を渡すことと、壁をなくすことは違います」
千紘は店のブラインドを半分下ろした。通りから奈々の席が見えなくなる。
「話すべきなのは、二人の安全や生活に関わること。話さなくていいのは、あなたがまだ言葉にしたくない細部です」
「どこまでなら、隠し事にならないんでしょう」
「相手に決めてもらわないことです。『全部聞きたい?』ではなく、『今はここまで話せる』と言う」
千紘は魚を描いたカップを差し出した。蓋の飲み口が、入口から見えない側へ向けられている。
「怖くなったら、この店を待ち合わせ場所に。住所を渡さず会えます。閉店後に一人で帰らせることもしません」
無愛想な声だった。それでも奈々は、助けを求める場所を先に用意してくれたことが嬉しかった。
新しい恋人へ、『以前の交際相手とのことで、名前を変えた。詳しくは少しずつ話したい』と送る。返事は、『話せる分だけでいい。次は店で会おう』だった。
飲み終えた奈々は、三枚の古いカードを千紘へ渡した。
「捨ててください」
千紘は目の前で細断し、新しい白紙のカードを一枚出した。しかし奈々の名は書かず、自分の名前を記した。
『御影千紘』
「どうして店員さんの名前を?」
「名前は、飲み終わってからです」
千紘は初めて真正面から奈々を見た。
「あなたにだけ名乗らせるのは、不公平でしょう。次に困ったときは、この名前を呼んでください」
白紙だったスリーブにも、小さく同じ名が書き足されていた。