命令の届かない刃
深夜、賢者カイの寝室へ一筋の刃が滑り込んだ。
狼獣人ルシェ。
王国一と恐れられる暗殺奴隷で、喉には赤い隷属環が埋め込まれている。主人が標的の名を告げれば、殺すまで心臓が焼かれる。
短剣がカイの胸へ届く寸前、彼は二本の指で刃を挟んだ。
「命令は『私を殺せ』か」
「……逃げて」
「君が死ぬ」
「それでも、逃げて」
廊下の水晶から所有者の声が響く。
『ルシェ、失敗すれば首輪を爆ぜさせる』
赤い環が脈打つ。ルシェの腕が強制的に押し込まれ、短剣が一寸ずつ進んだ。
「私の所有印へ変えれば助けられる、とでも言うつもり?」
彼女は苦痛の中で笑った。
「次の主人になるくらいなら、今ここで殺して」
「同感だ。だから主人は増やさない」
カイは刃を挟んだまま、もう片方の手で自分の胸を叩いた。
心臓の音が、止まる。
赤い環は標的の死を感知し、命令完了の青へ変わった。
その一瞬だけ、所有者との回線が閉じる。
カイは止めていた心臓を再び動かし、青く眠った環を指先で摘まんだ。糸を抜くように、首から赤い術式だけを引きずり出す。
『何をした!』
「命令を完了させた。死んで、生き返っただけだ」
術式を握り潰すと、遠隔水晶も砕けた。ルシェの首から金属片が落ち、絨毯の上を転がる。彼女は深く息を吸った。痛みのない呼吸は、記憶にないほど静かだった。
「窓から出れば追跡結界の外だ。好きな方向へ行け」
「私を捕らえないの?」
「自由な相手を捕らえる趣味はない」
ルシェは短剣を持ったまま夜へ消えた。
翌朝、カイが朝食の席へ着くと、卓上にその短剣が置かれていた。柄が彼の側へ向けられている。
向かいの椅子にはルシェが座っていた。
「返しに来たのか」
「違う。預けに来た」
彼女は空になった首元を指でなぞる。
「命令なら二度と聞かない。でも、あなたを狙う刃が来たら、私の意思で先に折る」
カイは短剣を押し返した。
「なら自分で持て」
ルシェは柄を握り、今度は誰にも向けず腰へ納めた。
命令の届かない刃が初めて選んだ標的は、彼女の自由を奪おうとするすべてだった。