喪服の帰宅係
葬儀が終わると、死者の影を誰か一人が家まで送る。
帰宅係は喪主以外から選ぶ。影の三歩後ろを歩き、追い越してはいけない。途中で死者が生前寄らなかった場所へ入っても待つこと。家へ着いたら、影より先に「おかえり」と言ってはならない。
能登瀬遼一は、父・哲吾の帰宅係になった。
父とは八年会っていなかった。母の葬儀で口論して以来、電話にも出なかった。危篤の知らせには間に合わず、棺の中の顔だけが昔より小さく見えた。親戚は誰も事情を尋ねず、「息子なら道を知っている」と帰宅係を任せた。
火葬場を出ると、父の影が喪服の足元から抜けた。骨壺には影がない。黒い人型だけが門を出て、駅とは反対へ歩き始める。遼一は三歩後ろについた。
影は工具店へ寄った。父は配管工だったが、遼一が知る限りその店を使っていない。店主は影を見ると、棚から小さなモンキーレンチを出し、床へ置いた。影は持てないので、遼一が拾った。代金はすでに払われているという。
次に影は児童公園へ入った。ブランコの下で十分止まり、砂場を一周した。遼一が子供のころ、父は日曜も働き、ここへ来た記憶はない。だが砂場の縁に、二人の名前の頭文字が古く刻まれていた。
最後に、影はコンビニへ入った。床の明るさに薄まりながら、弁当棚の前で立つ。店員は慣れた様子で、鮭のおにぎりを一つ袋に入れた。父の昼食はいつも梅だったはずだ。遼一は何も質問しなかった。
父の家へ着いたのは日暮れだった。影は玄関前で止まり、鍵穴を指した。遼一は遺品の鍵で開ける。室内は片づきすぎていて、誰かを待つ家には見えなかった。
影が先に上がり、台所へ向かった。食卓には茶碗が二つ、伏せて置かれている。小さいほうの底に、子供の字で「りょう」と書かれていた。
遼一は「おかえり」を待った。影は口を持たない。ただ椅子へ座り、空の向かい側を指した。
規則では、死者の影が家へ入った時点で帰宅は完了する。遼一は帰ってよかった。けれど、鮭のおにぎりを二つに割り、片方を茶碗へ入れた。
朝になると父の影は消えていた。食卓には小さなモンキーレンチ、開封されていない梅のおにぎり、そして子供用の茶碗が残った。
茶碗の白い内側に、黒い親指の跡が一つだけ押されていた。