図書カードの最後の欄
転校が決まった日、彼は図書カードを返しに来た。
紙のカードには、三年間で借りた本の題名が小さな字で並んでいた。枠が足りず、裏面まで埋まっている。
「カードは返さなくていいよ」
図書委員の僕が言うと、彼は首を振った。
「学校のものだろ」
「今はデータ管理だから、その紙は記念」
彼はカードを光へ透かした。最初に借りたのは昆虫図鑑。次は冒険小説、料理本、写真集。題名だけで、彼の三年間が見えるようだった。
教室では目立たない彼が、図書室では誰よりよく話した。面白かった本をカウンターへ持ってきて、感想を一方的に言う。僕は貸出印を押しながら聞く役だった。
「最後に一冊、借りる?」
「返せない」
「郵送でもいい」
彼は棚を一周したが、何も選ばなかった。
「途中になるの嫌だから」
転校は明後日。読む時間はほとんどない。
僕は短編集を一冊持ってきた。一話が五ページしかない。
「一編だけなら終わる」
彼は最初の話をその場で読んだ。窓際の席。夕方の光。ページをめくる音。
読み終えると、二編目を開いた。
「一編だけじゃなかった?」
「まだ時間ある」
閉館までに四編読んだ。翌朝も来て、昼休みも来て、転校前日の放課後には最後の一編だけ残った。
「続き、向こうで読めば」
僕が言うと、彼は本を閉じた。
「最後はここで読む」
転校当日の朝、図書室はまだ開いていなかった。僕は委員の鍵で入れた。彼は制服の上にコートを着て、鞄を二つ持っていた。
最後の一編を読み終えるまで、僕らは話さなかった。
本を返却し、カードの最後の欄へ題名を書いた。余白がなかったので、彼は枠の外に小さく続けた。
その下へ、僕は鉛筆で『未完』と書いた。
「読み終わったけど」
「図書室の利用記録が」
彼はカードを見て笑った。
「じゃあ、持っていく」
本ではなく、カードを胸ポケットへ入れた。
数か月後、封筒が届いた。中には新しい町の図書館カードのコピーが入っていた。最初の貸出欄には、あの短編集と同じ作者の本が書かれている。
裏に一言。
『続き、見つけた』
僕は学校の図書カード台帳を開いた。彼の名前の横は転出の線で消されていた。
その下に、鉛筆で小さく書いた。
『返却不要』
図書室で借りられるのは本だけではない。次の場所へ持っていける時間も、たしかにある。