図書館から消される男
市立図書館で、小比類巻杏路は返却棚の向こうから司書たちの声を聞いた。
「小比類巻さんの記録、今夜ぜんぶ消します」
「本人には知らせなくていいですか」
「かえって混乱します。古い番号も名前も使えなくして、新しいものへ移しましょう」
杏路は借りていた本を落としそうになった。
先月、返却期限を三日過ぎた。図書館は遅延者の存在そのものを消すのか。
彼は友人へ電話した。
「市の記録から抹消される」
「図書館にそんな権限ある?」
「名前も番号も使えなくするらしい」
「貸出カードの話では」
「全部消す、と言った」
「まず“全部”の範囲を聞け」
「聞いたら先に消される」
杏路は司書へ探りを入れた。
「人の過去を消すことはありますか」
「必要なら」
「本人の同意なしで?」
「規則上、一定期間が過ぎれば」
「一定期間?」
「五年です」
杏路は青ざめた。
「三日では?」
「三日?」
「いや、独り言です」
司書はさらに言った。
「新しく作り直せば、今後は問題ありません」
「人生を?」
「カードを」
「今、カードと言いました?」
「はい」
杏路は安心しかけたが、奥から別の司書が声をかけた。
「住所も生年月日も削除しますね」
安心は消えた。
杏路は市役所へ駆け込み、住民票を取り、銀行口座を確認し、家族へ連絡した。
「今夜、私の身元が消えるかもしれない」
母は答えた。
「部屋の荷物は消えないから早く片付けて」
「息子の存在より収納?」
「図書館の人に片付けてもらえるなら呼びたい」
閉館前、杏路は覚悟を決めて司書室へ入った。
「消すなら、理由を教えてください」
主任司書が画面を見せた。
同じ名前、同じ住所、同じ生年月日の利用者記録が二つ並んでいる。カードを紛失した際、新規登録と再発行を取り違えたため、重複していた。
「古い方を削除し、新しい番号へ貸出履歴を統合します」
「本人には知らせない、とは?」
「処理だけで済むので、お手間を取らせない意味でした」
杏路は胸をなで下ろした。
主任司書が続ける。
「ただし延滞三日の記録は統合後も残ります」
消されたのは分身で、遅刻だけは生き残った。