型枠が鳴いた場所

擁壁のコンクリートを打ち始めて一時間、久世郁美は低い音を聞いた。

ぎ、と木が擦れる音だった。ポンプの唸りとバイブレータの振動に埋もれ、誰も振り向かない。

「一度止めてください」

「まだ半分だぞ」

今夜中に三メートルの高さまで打つ。それが依頼だった。途中で止めればコールドジョイントができる。現場監督が反対するのは分かっていた。

郁美は型枠に引いた鉛筆線へ定規を当てた。中央だけ五ミリ膨らんでいる。中を覗くと、本来両側の板を結ぶセパレーターが一本、配管の開口と重なって外されていた。大工は周囲を補強したつもりだったが、打設速度が予定より速く、まだ固まらないコンクリートの圧力が一点へ集まっていた。

「完全には止めません。上げる高さを半分にします」

郁美はポンプの流量を落とし、左右へ交互に流すよう順番を変えた。その間に外側へ支えを追加する。止めすぎれば継ぎ目になる。速すぎれば型枠が割れ、道路へコンクリートが流れ出す。必要なのは中断ではなく、圧力が抜ける時間だった。

監督は時計を見て舌打ちしたが、道路側へ警備員を増やした。もし破れた場合に、車を近づけないためだ。

支えを締めるたび、膨らみは一ミリずつ戻った。郁美は型枠へ掌を当て、振動が一定になったところで流量を少し上げた。

午前四時、天端までコンクリートが届いた。鉛筆線のずれは二ミリで止まっている。

「結局、三十分遅れた」

監督が言った。

郁美は道路へ向いた型枠を見た。

「三十分で、道路を埋めずに済みました」

最後の生コン車が洗い場へ向かう。夜が明ける前に、郁美の無線へ次の声が飛んだ。

「東側の壁、配管の位置が図面と違うそうです」

郁美は五分ごとに膨らみを記録し、数字が増えたら即座に全停止する線を決めた。感覚だけで続ければ、止める判断は遅れる。先に限界を共有すると、職人も時計ではなく線を見るようになった。

音が消えても、郁美は線から目を離さなかった。

彼女は定規をポケットへ戻し、まだ柔らかい擁壁の隣へ歩いた。