墨鬼は謝罪文を読まない

文具店の奥に、「送る前の文章を直します」と墨で書かれた扉がある。

沙月がノートパソコンを開くと、濃紺の袖を引きずる男が、長い筆を一本だけ机に置いた。

「文字は人より長生きする」

墨鬼の玄墨は、口約束をする人間より、記録を消す人間を嫌う。白い指先にはいつも墨がついていた。

沙月が見せたのは、上司へのメールだった。

自分が半年かけて作った提案を、会議で上司の案として発表された。抗議すると「チームの成果だろ」と笑われた。感情的になったことを謝り、今後も協力する、と書いてある。

「謝罪文は読まない」

「文章を直す店でしょう」

「謝れば丸く収まると思う人間の文は、丸すぎて掴めない」

玄墨は筆先で画面をなぞった。文字が黒い水滴となって剥がれ、机の上へ落ちる。最後に残ったのは「私が」「作成した」「四月から」の三か所だけだった。

「これが相談か」

「争いたいわけじゃありません。ただ、次の評価で不利になるのが怖くて」

「なら、感情ではなく所有者を記せ」

玄墨は新しいメールを口述した。

四月三日の初稿、七回の修正履歴、取引先への送信記録。会議で使用された図の作成ファイル。責める言葉は一つもない。ただし、すべての主語を「私」に戻した。

「こんなの送ったら、嫌われます」

「人間は嫌いだ。嫌われることを過大評価する人間は、さらに面倒だ」

「あなたに言われたくないです」

「私は嫌われても、仕事を盗まれない」

玄墨は初めて少し笑い、筆の柄で送信ボタンを指した。

沙月は指を置いた。怖さは消えない。けれど、謝罪文を送るより自分を裏切らずに済むと思った。

送信後、玄墨はメールを紙へ印刷し、隅に小さな墨印を押した。

「何の印ですか」

「文字が逃げないための重しだ」

店を出る直前、沙月は筆を見た。軸には細かな名前が無数に刻まれている。どれも墨で塗りつぶされかけ、それでも読めた。

「文字は人より長生きするんですよね」

「ああ」

玄墨は濃紺の袖で筆を包み、今度は静かに言った。

「だから、消される前に自分の名前を残せ」

翌朝、上司から呼び出しが来た。

沙月は墨印のある紙を鞄に入れ、謝らずに席を立った。