壁の向こうの百二十拍

夜十一時になると、東棟の壁が百二十拍で震え始めた。

六〇六号室の雨宮野玲珂が電子ドラムを叩いている。本人はヘッドホンをしており、音が漏れていないと言い張った。

階下の久遠森環奈が管理会社へ相談すると、玲珂は逆に苦情を入れた。

「歩く音がうるさい。私の練習へ嫉妬してるだけ。音楽を理解しない住人を追い出して」

玲珂は配信者でもあり、毎晩〈完全防音マンションから深夜ライブ〉と生配信していた。

しかし建物は防音仕様ではない。

話し合いの日、玲珂はメーカーの説明書を持参した。

「電子ドラムは静音です。苦情は科学的根拠がありません」

環奈は、管理会社が設置した振動計の結果を提出した。三部屋の壁と床で同時刻に測定し、六〇六号室から離れるほど数値が下がる。ペダルを踏む低周波振動は、毎分百二十回。玲珂の配信曲のテンポと完全に一致していた。

玲珂は、誰かが配信へ合わせて床を叩いた可能性があると言った。

管理会社はスマートメーターの電力記録も示した。電子ドラムと配信用照明が動く時間だけ、六〇六号室の使用量が急増している。廊下カメラには、玲珂が警告を受けた後、床へ硬い板を追加し、「もっと響かせたら階下がどうなるか実験」と話す姿まで残っていた。

「配信上の冗談よ」

玲珂が笑うと、配信サービスの担当者がオンライン参加した。規約では、他人へ迷惑をかける企画や、住所が特定できる形で住人を侮辱する配信は禁止。玲珂は環奈の郵便受けと部屋番号を映しており、アカウント停止が決定したという。

大家は改善命令違反、深夜騒音、他住人への嫌がらせを理由に契約解除を通知した。床板と無断施工の原状回復費も請求される。

玲珂は環奈へ言った。

「配信をやめれば収入がなくなる。引っ越し代くらい出してよ」

環奈は振動計の画面を閉じた。

「百二十拍すべて、自分で踏んだものです」

配信アカウントが停止され、六〇六号室の明渡日が確定した瞬間、壁の向こうへ響いていた百二十拍は止まり、玲珂の収入と住居だけが同時に無音になった。