夕焼けのピアノ蓋

最後の音が消える前に、彼女はピアノの蓋を閉じた。

音楽室の窓から、オレンジ色の光が差していた。黒い蓋には夕焼けと、私たち二人の顔が薄く映っている。

「まだ響いてたのに」

私が言うと、彼女は右手を膝の上へ置いた。

「響いてるうちに終わるほうが、きれいだから」

その曲は、彼女が小学生のころから弾いてきたものだった。終止音だけが、急に知らない音に聞こえた。

来月のコンクールを辞退した。

腱を痛め、医師から長時間の演奏を止められた。治る可能性はあるが、受験までに戻る保証はない。

私は譜めくり役として、ずっと隣で楽譜を追ってきた。彼女が初めて舞台で止まった日も、最優秀賞を取った日も、次の小節を待つ横顔を見ていた。

「もう一回だけ弾けば」

「その一回を何回やったと思う?」

彼女は笑った。

机には、途中まで書かれた退部届があった。

「音大もやめるの」

「たぶん」

「本当に?」

「分からない。でも、弾けない自分で受ける勇気はない」

夕日が鍵盤の白を赤く染めていた。

私は慰める言葉を探した。才能がある。まだ治る。諦めるのは早い。どれも彼女の痛みより軽かった。

代わりに、楽譜を一枚めくった。

最後のページの余白には、彼女が書いた小さな旋律があった。

「これ、何」

「練習中に思いついた」

「曲?」

「落書き」

私は指で音を追った。

「弾けないなら、書けばいい」

彼女は黙った。

「簡単に言わないで」

「簡単じゃない。でも、音楽まで退部しなくていい」

彼女の目から涙が落ち、ピアノの蓋へ小さな丸を作った。

私は蓋を開け直そうとした。

彼女が止めた。

「今日は閉じたまま」

二人で音楽室を出た。

廊下へ伸びる影が、扉の前で長く重なった。

一週間後、彼女は退部届を提出した。

音大の志望欄も消した。

けれど卒業式の日、私へ封筒を渡した。

中には五線譜が十枚。

題名は『マジックアワー』。

最初の小節は、あの日の最後の音から始まっていた。

演奏は終わった。

それでも、閉じた蓋の向こうで消えなかった響きが、別の形で続きを書いていた。