契約書の空欄
白妙寺結里葉は、離婚協議の席へ不動産譲渡契約書を持ってきた。
「家は私がもらう。琴平沢理久真は維持費もろくに払ってないから」
隣には、交際相手で不動産会社の法務課長・蓮見坂遼雅が座っていた。
遼雅は理久真へペンを差し出す。
「難しい条文は分からないでしょう。ここへ署名すれば、慰謝料は請求しないであげます」
二人は、理久真が証拠も資産も持たないと思っていた。
理久真は契約書を閉じ、別のファイルを開いた。
家は祖母から相続した信託財産で、結婚前から理久真の単独使用権が設定されている。夫婦共有財産ではなく、結里葉が取得できる持分は一つもない。
「でも不倫の証拠はない」と結里葉が言う。
ファイルには、二人がその家へ出入りしたスマートロックの記録、寝室の物品破損を映した防犯カメラ、ホテルの宿泊台帳、メッセージの鑑定書がそろっていた。遼雅は不動産会社の顧客データベースから家の登記情報を不正閲覧し、結里葉と売却計画まで作っていた。
そこへ会社の人事部長が入室した。
「蓮見坂課長、顧客情報の私的利用と、虚偽の契約書作成が確認されました。本日付で懲戒解雇です」
遼雅は、これは夫婦間の相談だと抗議した。
人事部長は、会社書式、会社印の画像、勤務時間中の端末利用記録を示した。二人が理久真へ署名させようとした書類自体が、解雇の証拠だった。
理久真の弁護士は、不貞慰謝料、家屋の無断使用、破損物の弁償を合算した和解案を置いた。拒否すれば訴訟と仮差押えへ進む。
結里葉の両親も同席していた。母は娘へ、実家への帰宅を認めず、これまでの援助金も返してもらうと告げた。
結里葉は理久真へ囁く。
「少しくらい情はないの?」
「情を契約書の空欄へ書き込むつもりはない」
二人が用意した不動産譲渡契約書は、最後まで無署名のまま回収された。
代わりに遼雅の解雇通知と、結里葉・遼雅双方の慰謝料請求書へ受領印が押される。
家を奪うはずだった契約の署名欄が空白で確定した瞬間、二人の未来にだけ、逃げられる余白がなくなった。