峠の東屋、薪の匂い

 雪平岳が低い峠を歩いていると、山の天気は前触れなく変わった。

 細い雨が木々の間を白くし、岳は遊歩道脇の東屋へ駆け込んだ。

 そこには先客がいた。背負い籠へ薪を入れた、作業着姿の男性だった。

「登山ですか」

「散歩のつもりでした」

「山では、散歩も少し登山になります」

 男性は籠を下ろし、濡れた薪へ布をかけた。

 岳はベンチの反対側へ座った。

 雨粒が葉を叩き、東屋の屋根へ集まって落ちる。

 男性は小さな魔法瓶から珈琲を注いだ。

「一杯余る」

「本当に?」

「いつも二杯分入れる。誰にも会わなければ二杯飲む」

 紙カップから、深い焙煎の香りが立った。

 岳は会社の健康診断で運動不足を指摘され、休日に歩き始めた。

 歩数計を見ながら、毎回一万歩を目標にしている。

「今日はまだ六千歩です」

 携帯を見せると、男性は雨の向こうを見た。

「ここまで来た歩数は?」

「六千」

「帰りも歩けば一万を越える」

「雨が止めば」

「止まらなくても、帰る分は残ってる」

 岳はカップを両手で持った。

 珈琲の苦みと、湿った杉の匂いが混じる。

 歩数は進んだ距離しか示さない。立ち止まって雨を聞く時間は、数字にならない。

 男性はこの山の向こうで薪ストーブ用の木を集めているという。

「毎日、重いでしょう」

「重い日は少なくする」

「予定量は?」

「背中が決める」

 岳は自分の肩を回した。リュックの中には、飲み物とタオルしかない。それでも少し張っていた。

 雨は三十分ほどで弱まった。

 雲の切れ間から光が差し、木の葉に残った水滴が一斉に明るくなる。

 男性は籠を背負い、岳とは反対の道へ向かった。

「一万歩、頑張って」

「頑張りすぎないようにします」

 岳が言うと、男性は親指を立てた。

 帰り道、岳は歩数計を見なかった。

 濡れた落ち葉を踏む音、沢の流れ、雨上がりの苔。峠を下りるころ、上着には珈琲と薪の匂いが残っていた。

 駐車場で初めて携帯を見ると、一万一千歩だった。

 岳は記録を保存せず、代わりに紙カップを丁寧に畳んだ。

 今日いちばん長く覚えていたいのは、歩いた数ではなく、東屋で止まっていた三十分の温度だった。