川の権利を売らない
青い硝子瓶の中で、川の水が揺れていた。
「水は余っている。使わない分を売るだけです」
領主代理ディモスは、前の人生と同じ説明をした。
谷村の書記タヴィンは、その水利譲渡契約へ村印を押した。契約後、上流に水門が築かれ、村へ流れる水は十分の一になった。畑は枯れ、井戸は濁り、領主は「水が欲しければ労働で払え」と村人を鉱山へ送った。
タヴィンが坑道崩落で息を失った次の瞬間、乾いた喉に香草茶の味が戻った。契約日の集会所。机には村印と青い瓶。窓の外では、まだ水車が回っている。
ディモスが契約書を指す。
「代金は金貨百枚。古い橋も直しましょう。断る理由はない」
前回は橋の修理に心を動かされた。
タヴィンは村印を持ち上げ、そのまま自分の懐へ戻した。
「売りません」
村長が驚き、ディモスは鼻で笑った。
「書記一人の感情で、村の利益を捨てるのですか」
「村の利益なら、なぜ契約期間が『川の尽きるまで』なのです?」
タヴィンは契約書を青い瓶の後ろへかざした。水を通すと、薄い文字で隠された追記が浮かぶ。
《下流域の取水を領主の許可制とする》
《渇水時の優先権は譲受人に属する》
集会所が静まり返った。
ディモスは瓶を奪おうとする。
「読解の誤りだ。これは非常時の管理条項で――」
「では、登録石にかけましょう」
村の水利契約は、祖霊の登録石へ瓶の水を一滴落として成立させる。タヴィンは瓶を取り、床中央の石へ垂らした。
本物の村川の水なら青く光るはずだった。
石は赤く染まり、《採水地点・領主新設水門内》と文字を浮かべる。契約前なのに、水門はすでに造られている。
窓の外で、水車の回転が止まった。ディモスが昨夜閉じさせた水門が、登録石の不正検知によって強制解除されたのだ。
遠くから轟音が近づく。
乾きかけていた用水路へ、澄んだ水が一気に流れ込んだ。村人たちの歓声が上がる。
前の人生では契約成立と同時に、登録石から村名が消えた。
今、石に新しい文が刻まれる。
《不正譲渡を拒否。谷村の永久水利権を再確認する》
ディモスは初めて、命令ではなく「交渉を」と口にした。