左手で返す

門倉伊吹は左利きだった。

明日の手術で左腕の神経に触れる可能性がある、と医師から説明された。動かしにくさが残るかもしれない。命に関わる話のあとで付け加えられたその一文を、伊吹は家まで持ち帰った。

夕飯はお好み焼きにした。夫が「俺が焼く」と言ったが、伊吹は左手で木べらを握った。

「一枚だけ」

キャベツを刻むのも、山芋をすりおろすのも左手でやった。普段なら気にしない動作が、今日は一つずつ輪郭を持つ。包丁の柄が当たる場所、ボウルを押さえる親指、卵を割るときの手首の角度。

夫は向かいで豚肉を並べた。丸く流した生地の縁が乾き、油が小さく泡立つ。伊吹は時計を見ず、匂いで待った。

「もういいんじゃない」

「まだ」

返す瞬間だけ、夫が息を止めたのが分かった。伊吹は木べらを二本差し込み、左手を深く入れる。重みが手首へかかる。少し傾き、豚肉が一枚ずれた。それでも生地は割れず、鉄板の中央へ落ちた。

焼けた面には、濃いきつね色の円ができていた。

二人でソースを塗り、かつお節が動くのを見ながら食べた。夫は手術の同意書を食卓へ出さなかった。伊吹も、練習用の右利き箸を買ったことは言わなかった。

最後の一口を夫が半分に切る。伊吹は大きいほうを左手の箸で取り、口へ運んだ。ソースが親指についた。

食後、鉄板が冷めるのを待ち、伊吹は濡らした紙で表面を拭いた。木べら二本を重ね、左手で引き出しへ戻す。柄の向きを揃え、奥まで押す。

夫が皿を持とうとすると、伊吹は左手で先に重ねた。蛇口をひねり、スポンジへ洗剤を落とす。濡れた皿は乾いた木べらより滑りやすい。親指で縁を押さえ、片面ずつ洗った。夫は手を出さず、拭くだけを引き受けた。最後の皿を渡すとき、二人の指が一瞬触れたが、どちらも握らなかった。伊吹は左手の水滴をエプロンで拭き、もう一度だけ指を開いて閉じた。

濡れた親指に、さっきのソースの匂いがまだ残っていた。伊吹はもう一度石けんを泡立て、爪の際まで洗った。

引き出しは途中でつかえず、静かに閉じた。