帰るためではない靴
小此木結冴は、玄関に新品のトレッキングシューズを置いていた。昨年、友人と山へ行くために買ったが、友人の都合が合わなくなり、旅行は消えた。一人で行く選択肢は、なぜか最初から考えなかった。休日の予定は、誰かに誘われて初めて形になった。行きたい店を保存しても、一人では「また今度」と閉じる。安全が心配というより、一人で楽しんでいる姿を自分だけが見ることに照れがあった。新品の靴は、友人の都合が戻るまで玄関で待つものになっていた。映画も旅行も、誘える相手が見つからなければ予定表から消した。行きたい場所は増えたが、誰かの都合が空くまで保留にするうち、季節だけが先に変わった。靴箱の新品の底は、買った日の白さを保っていた。
上階の水漏れで九日間だけ入った社宅には、碓井沙羅がいた。登山ガイドの仕事が始まるまでの空白期間だという。沙羅は近所の坂にも天気に合わせて靴を選び、買い物の帰りに知らない階段を見つけると上まで確かめた。目的地より、自分の足が選んだ寄り道を覚えている人だった。沙羅は結冴の靴を見るたび、紐の結び方を変えたり、踵を指で押したりした。
「その靴、帰る道しか知らないの?」
四日目の朝、突然そう訊かれた。
「まだ外を知らないです」
「じゃあ今日、塩を買うとき履いてみて。店まででいい」
山へ行けとも、一人で出かけろとも言わず、沙羅は古いスニーカーで仕事探しへ出た。
夕方、結冴はスーパーへ行く準備をした。トレッキングシューズは近所には大げさで、鏡に映る足元だけが旅を始めた人に見えた。いったん脱いで、いつものパンプスを履く。けれど踵の硬さが、今日は妙に窮屈だった。
結冴はもう一度靴を替えた。新しい底は階段で乾いた音を立てた。スーパーまでの七分で足首が少し擦れ、山どころではないと思った。それでも、塩を一袋買って外へ出ると、夕方の風が靴の網目を通った。
右へ曲がれば社宅だった。左へ行けば川沿いの遊歩道で、十分歩くと小さな丘へ続く。日没までには戻れる。誰にも予定を合わせなくていい。歩き切れなくても、途中で戻っても、待たせる相手はいなかった。結冴は地図を開きかけてやめ、川の見える方角を目で確かめた。
結冴は塩の袋を上着のポケットへ入れた。
そして家とは反対の坂へ、新しい靴で一歩踏み出した。