帰還先を捨てる
地球帰還船の航路選択まで九十秒。星崎暁臣のヘルメットに通知が浮かんだ。
〈六十一歳の火星総督である君より。地球を選ぶな。火星輸送路へ接続しろ〉
観測任務を終えた暁臣の船は、重力スイングで地球か火星のどちらか一方へしか進めない。操縦盤には青い地球のビー玉。息子が出発前にくれたものだ。自動音声が告げる。
『帰還窓まで九十秒』
暁臣は通知に従い、火星を選んだ。画面に「人類初の火星定住者」と未来の映像が広がり、船体が加速した瞬間、九十秒前へ戻った。
『帰還窓まで九十秒』
〈地球を選ぶな〉
二度目は地球を選んだ。大気圏突入の閃光とともに戻った。三度目は通信を待ったが、地上からの返答は間に合わない。差分は角度と燃料だけで、航路が確定すると必ず時間が巻き戻る。
未来の火星総督は、着陸地点、演説の文句、最初に掲げる旗まで送ってきた。成功条件も明示された。
〈火星航路を選び、未来通信中継器を持ち込むこと〉
中継器があるから、六十一歳の暁臣は今の自分へ通知できる。だが添付された火星史には、通信を独占した総督府が、地球からの移民を選別し続けた記録があった。息子は適性不足で搭乗を拒否され、父と再会していない。
二十回目、暁臣は青いビー玉を地球ボタンの上へ置いた。押せば息子のもとへ帰れる。だがその未来も、火星の自分が存在するためには選ばれない。どちらを選んでも、通知の送り手が成立するまで戻される。
『帰還窓まで九十秒』
暁臣は第三の項目を開いた。〈航法核投棄〉。故障時に船を無誘導状態へして、地球や火星への衝突を避ける最終手段だ。実行すれば帰還不能。小惑星帯を漂流し、救助計画も立てられない。
未来から三度通知が来た。
〈火星を選べ〉
〈歴史を作れ〉
〈息子にも誇れる〉
「会えない父親の銅像を、誇る必要はない」
暁臣は航法核と未来通信中継器をまとめて射出した。青いビー玉が無重力で浮く。地球も火星も選択表示から消え、船は名のない楕円軌道へ入った。
九十秒が過ぎた。自動音声はもう繰り返さない。
燃料残量は十一年分。帰る場所は失ったが、火星総督の未来も消えた。通信欄には息子への未送信メッセージだけが残っている。
暁臣は「帰れない」と打ち、送信予約を百年後に設定した。少なくとも、その言葉を未来の自分に書き換えられることはなかった。