幕の端の影

町の劇場には、誰も演じない場面で一つ多い影が出た。

舞台の照明が最も暗くなった瞬間、幕の端に立つ細い人影。

役者も観客も、普段は気づかない。

若い舞台監督だけが、その影を見た。

古い脚本を調べると、初演時の出演者一覧に一行だけ削られた跡がある。

劇団の古参へ聞いても、

「最初からこの人数だ」

と言う。

照明を落とすたび、影は同じ動きをした。

舞台中央へ半歩進み、誰かを押し戻すように腕を伸ばす。

舞台監督は、その場面を何度も再現した。

ある夜、主演役者が立ち位置を間違え、落とし穴の装置へ近づいた。

影が現れ、腕を伸ばす。

監督は反射的に叫び、役者を止めた。

古い事故記録が倉庫から見つかった。

初演の稽古中、一人の役者が仲間を突き飛ばして装置から救い、自分が落ちて大怪我をした。

その後、劇団を去った。

なぜか全員の記憶と記録から名前だけが消えていた。

衣裳箱に、名前のない上着が残っている。

袖の内側へ、劇団員全員の寸法が書いてあった。

その役者は衣裳係も兼ね、皆の服を直していたらしい。

舞台監督は、次の公演で影の立つ場所へ小さな明かりを置こうと提案した。

古参は反対した。

「物語にいない人を照らすな」

「物語にいないんじゃない。私たちが忘れたんです」

本番の日、幕の端へ細い光が入った。

観客には空席のように見える場所。

役者たちは、そこへ一度ずつ視線を送ってから台詞を始めた。

終演後、影は現れなかった。

名前は最後まで分からない。

それでも劇団は、出演者一覧の末尾へ一行加えた。

「舞台を守った人」

翌年、古い劇団員から手紙が届いた。

病院で長く暮らす兄が、昔この劇場にいたと書かれていた。

写真には、名前のない上着を着た若者が笑っている。

舞台監督は病院を訪ねた。

本人は劇団のことをほとんど覚えていなかった。

それでも写真を見て、

「袖が長い」

と笑った。

名前を取り戻すことはできた。

失われた年月は戻らない。

劇場では今も、暗転の前に幕の端へ一筋の光を置く。

見えない誰かが守った場所を、もう一度暗闇へ戻さないために。