床に残る八カウント
椹木薫子は、居酒屋の狭い個室で指を鳴らした。
「解散の乾杯、八カウントでいくよ。ファイブ、シックス——」
「乾杯に振付いらない」と不破朱鷺が遮った。
杵島要だけが、七でグラスを上げた。三人のタイミングは最後まで合わなかった。
ダンスサークルは、学園祭の事故をきっかけに活動停止となった。要が舞台から落ちて足首を痛め、薫子が強行出演を決め、朱鷺が大学へ報告した。誰が悪いかを決めないまま、後輩は別団体へ移り、三人は今夜、解散届に署名する。
「薫子、ソウル行くんだろ」
「振付スタジオ。アシスタントから」
「怪我人を踊らせる振付師?」
朱鷺の言葉に、薫子の指が止まった。
「だから行く。次は止められる側じゃなく、止める側になる」
要は春から実家へ戻り、父の介護をする。足はもう踊れる程度に治ったが、夜の練習には参加できない。
「怪我のせいにできたら楽だった」と要は言った。「でも帰るのは、怪我する前から決めてた」
朱鷺は銀行へ就職する。踊りは趣味にも残さない。
「私、音が鳴ると人数を数えちゃうから。足りない人を探すの、もう嫌」
薫子は謝らなかった。朱鷺も許すとは言わなかった。要は二人の間に空の皿を寄せ、署名欄を順番に回した。
「三人とも別の街か」
「別の未来」と薫子が言う。
「未来って、そんな大げさなもの?」
「大げさに言わないと、ただ散っただけになる」
店員がラストオーダーを告げた。薫子は反射的に手を叩き、三人は椅子に座ったまま、最後の八カウントを足先で刻んだ。
一、二。要の右足だけが遅れる。
三、四。朱鷺は動かない。
五、六。薫子が一人で速くなる。
七、八。誰の音も重ならない。
会計を終え、三人は駅の違う出口へ向かった。要は店にダンスシューズを忘れたことに気づいたが、戻らなかった。怪我をした日に履いていた、底のすり減った一足だった。
個室の椅子の下で、左右の靴は別々の方向を向いていた。床にはまだ、誰も揃えられなかった八カウントが残っていた。