座ってはいけない椅子
桐島野景哉は、塗料のついたスウェット姿で家具ショールームへ入った。
中央に置かれた革張りの椅子へ腰を下ろすと、販売主任の荻生田眞人が駆け寄った。
「展示品へ勝手に座らないでください」
「椅子なのに?」
「こちらは五百万円です。購入意思のある方だけ、スタッフ立会いでお試しいただけます」
景哉は背もたれへ体重を預け、左側の軋みを確かめた。
「脚の接合が一ミリずれている。交換したほうがいい」
荻生田は笑った。
「職人ごっこは工事現場でどうぞ」
若い修理担当が耳を近づけ、確かに異音があると気づいた。だが荻生田は、客前で恥をかかせるなと彼を倉庫へ下げた。
翌日、ショールームの親会社が新たなブランド方針を発表した。海外展開の責任者と、創業者デザイナーが来るという。
景哉は同じスウェット姿で会議へ現れた。
桐島野家は家具メーカーと販売網を所有する創業家。景哉は代表取締役であり、五百万円の椅子を設計した本人だった。前日は塗装工房で新素材を試し、その足で品質と接客を確認していた。景哉は社長室より工房にいる時間のほうが長く、スウェットも職人たちと同じ支給品だった。
「椅子へ座らずに、どうやって価値を確かめるんですか」
荻生田は、商品保護のためだと答えた。
監査資料には、彼が販売実績を優先して異音の報告を三度消し、返品を修理担当の責任へしていた記録がある。椅子の接合ずれも、倉庫で落下させた事故を隠した結果だった。
景哉は若い修理担当へ、工房の品質責任者研修を提示した。
「一ミリの音に気づいた人を、売場から隠す必要はありません」
荻生田の主任権限が停止され、五百万円の椅子には〈展示中止・修理〉の札が付いた。
景哉は代わりに、量産予定の低価格椅子を会場へ運ばせた。誰でも自由に座り、修理しながら二十年使える新製品だった。
最初の客が安心して腰を下ろし、若い責任者候補が保証書へ署名した瞬間、座る資格を服で決めた荻生田だけが、ショールームに居場所を失った。