引き継げない案件
「引き継げない案件はありません」
佐伯俊哉は、朝倉莉子の異動が決まった日、きっぱりと言った。
顧客情報も、提案の癖も、苦情対応の順序も、全部文書にできる。だから心配せず新部署へ行け、と。莉子はその頼もしさに笑いながら、少しだけ傷ついた。
二人で担当した四年間が、きれいにファイルへ収まってしまう気がしたのだ。
最終日の午後、会議室で引き継ぎ表を確認する。百二十七項目。担当者、期限、保存先。佐伯らしく一つの漏れもない。
「これで全部です」
「本当に?」
「チェックしてください」
「水曜の昼は?」
佐伯の指が止まった。
毎週水曜十二時十五分、二人は駅裏の定食屋へ行った。会議でも福利厚生でもない。ただ忙しい週の真ん中に、互いがきちんと食べているか確かめる時間だった。
「それは業務ではないので」
「では、異動したら終了ですね」
「朝倉さんがそうしたいなら」
莉子は返事をせず、引き継ぎ表の最終行をクリックした。空白のセルが一つだけ残っている。
佐伯は彼女からマウスを受け取り、ゆっくり入力した。
〈項目:水曜十二時十五分、駅裏の定食屋〉
〈担当:佐伯俊哉・朝倉莉子〉
〈区分:私用〉
〈期限:なし〉
莉子は画面を見たまま、息をつめた。佐伯は印刷ボタンを押し、出てきた紙へ先に署名する。業務書類ではない最終行まで、責任を持つような字だった。
「これは、誰に引き継ぐんですか」
「誰にも」
「私が行けない週は?」
「翌週へ延期します」
「新しい部署で、好きな人ができたら?」
「それは困るので、今日から水曜以外も押さえたいです」
告白らしい言葉はなかった。佐伯はただ、来週水曜の予定を個人カレンダーから送り、会議室の机の上で手を差し出した。
莉子はその手を取る。握手の形で始まったのに、佐伯の親指が彼女の指をなぞり、仕事の挨拶ではない握り方へ変わった。
「俊哉さん」
「はい」
「次から、定食屋以外も提案してください」
莉子は引き継ぎ表へ自分の署名を重ねた。
引き継げない案件はない、と彼は言った。
けれど二人の水曜日だけは、誰にも渡さず、担当を続けることにした。