影を縫った銀糸
公爵家の聖女ヴェラは、昼でも影を持たなかった。
彼女の影は一枚の黒布へ縫い付けられ、公爵の金庫に保管されている。銀糸を引かれるたび、体は意志に反して動く。笑えと言われれば笑い、呪えと言われれば敵を呪った。
王宮仕立師のマティスは、公爵の戴冠礼服を直すため屋敷へ呼ばれた。
採寸の最中、公爵は見せびらかすように黒布を出した。
「この糸一本で、聖女さえ操れる。お前も便利な服を作れるだろう?」
「服は人に合わせるものです。人を服へ合わせる趣味はありません」
公爵が銀糸を引く。
ヴェラの右手が上がり、祝福の光が公爵の肩へ注がれた。顔には苦痛が浮かぶのに、腕は下がらない。
マティスは裁ち鋏を抜いた。
「無駄だ。糸を切れば聖女の魂も裂ける」
仕立師は糸へ鋏を当てなかった。
黒布の周囲を、一気に丸く切り抜いた。
公爵の紋章だけが布から分離する。所有者を示す刺繍が床へ落ちた瞬間、銀糸は支えを失い、さらさらとほどけた。
ヴェラの足元へ、久しくなかった影が戻る。
公爵は別の糸をつかもうとしたが、すべて普通の糸になっていた。
「私の影を、あなたの布へ縫い直すのですか」
ヴェラの問いに、マティスは首を振る。
「影は持ち主から離れないのが一番です」
彼は黒布を窓から朝日にかざした。銀糸は溶け、契約の刺繍も灰になった。
ヴェラは自分の影を踏み、足を動かした。右へ一歩、左へ一歩。誰にも引かれていないことを確かめると、そのまま屋敷を出た。
数日後、マティスは公爵の報復で王宮を解雇された。小さな仕立屋へ戻り、一人で看板を外していると、扉の鈴が鳴る。
旅装のヴェラが立っていた。
「礼服の注文なら、今は受けられません」
「働き口を探しています」
「聖女が仕立屋で?」
「影の扱いには詳しくなりました」
彼女は一本の縫い針を取り出し、掌に載せた。かつて自分を縛った銀糸から、溶け残った銀を打ち直したものだという。
「これをあなたに差し出したら、また縛られると思いますか」
「針を預かるだけです。糸を通すかは、あなたが決める」
「その答えを聞きに戻りました」
ヴェラは針をマティスへ渡し、自分の影が隣に並ぶ位置へ立った。
夕日が二人の影を長く伸ばした。どちらも縫い留められず、扉の外まで自由に続いていた。