憎しみのない証言台

 真実を吐かせる黒い蛭の精霊は、質問する者の憎しみを食べる。

 憎しみが濃いほど、相手は一度だけ完全な真実を答える。ただし食べられたあと、質問者はその相手を二度と憎めない。

 法廷の中央で、グレサは兄を殺した男と向き合った。

 ダガン侯は白い手袋をはめ、退屈そうに椅子へ座っている。証拠は消され、目撃者は金で口を閉ざした。今日無罪になれば、二度と裁く機会はない。

「精霊を使うのですか」

 裁判長が確認した。

「代価は理解しています」

 グレサの手首には黒い蛭が巻きついている。

 兄の遺体を見つけた朝から育ててきた憎しみを、精霊は嬉しそうに嗅いでいた。

 兄は新聞書きだった。侯爵家が孤児院の寄付を横流ししていると突き止め、記事を出す前夜に路地で刺された。

 グレサは兄の机を引き継ぎ、脅迫状を集め、燃えた帳簿をつなぎ合わせた。そのたびに、いつかダガンを怯えさせる場面を思い描いた。

 憎しみを失えば、その願いも消える。

 兄の墓前で誓った復讐が、他人の古い約束になる。

「質問は一つだけです」

 裁判長が言う。

 ダガンは薄く笑った。

「私を憎めなくなるのだろう? 答えを聞いたあと、赦してしまうかもしれないな」

 グレサは兄の最後の記事を胸元に入れていた。

 そこには、悪人を憎むことより、被害を止めることが新聞の役目だと書かれている。生前は綺麗事だと思った。今も、半分はそう思う。

 黒い蛭が皮膚を破った。

 憎しみが血より熱く吸い上げられる。兄を嘲ったダガンの声。葬儀の日にも届いた脅迫状。眠れなかった二百六十三夜。

 一つずつ遠くなる。

「おまえが兄を殺すよう命じたのか」

 グレサは尋ねた。

 法廷中が息を止める。

 ダガンの顔から笑みが消えた。喉が勝手に動き、言葉を押し出す。

「命じた。記事を止めるために、金を払った」

 傍聴席が揺れた。

 黒い蛭は最後の憎しみを飲み、手首から落ちる。

 グレサはダガンを見た。

 もう殴りたいとも、泣かせたいとも思わない。兄を奪った顔なのに、ただ一人の罪人に見えた。

「ほら、赦した」

 ダガンが震える声で言う。

 グレサは兄の記事を裁判長へ差し出した。

「いいえ。憎しみと判決は、別のものです」

 衛兵が侯爵の両腕を取った。

 復讐を果たした喜びさえない静けさの中で、グレサは兄の名を証言簿へ記した。