持ち替える朝

真柴琴美は喫茶室「硝子雨」で、研修所から届いた合格通知を開いていた。

靴を作りたいと思ったのは、会社員三年目に自分の足へ合う一足を仕立ててもらったときだった。夜ごと革の端切れで練習し、応募したことは誰にも話していない。秘密のままなら、失敗しても傷つかずに済んだ。

合格通知の末尾には、作業靴のサイズを返信する欄があった。そこだけは、届いた日に迷わず入力できていた。

地方の製靴工房で、半年間学べる。応募したときは行く気だったのに、合格した途端、今の会社を辞める怖さばかりが大きくなった。二十八歳で未経験へ移ること、収入が半分になること、知らない町で暮らすこと。辞退期限は今日だった。

店主が置いたカップは、持ち手が少し左へ傾いていた。付け根を一度割ったらしく、淡い灰色の継ぎ目がある。右手で持つと手首が外へねじれ、妙に扱いづらい。

琴美が置き直すと、店主は何も言わず、カップを半回転させた。持ち手が左に来る。左手で持てば、傾きは指の形へぴたりと沿った。

琴美は普段、何でも右手で済ませている。左手で飲むだけなのに、最初の一口はひどくぎこちなかった。二口目からは、こちらのほうが軽く感じた。

壊れた持ち手を元の角度へ戻すことはできなかったのだろう。代わりに、持つ側を変えれば、カップは今も毎日使える。

通知画面には、〈辞退する場合のみ返信〉とある。何もしなければ進む。なのに琴美は、辞退の文面を何度も下書きしていた。

会計で、店主は釣銭を琴美の左手へ渡した。右手には鞄を持っていたから、それだけのことだった。硬貨を受け取る左の指は、思ったより確かに動いた。

琴美は店の古い電話台の横で、会社の退職面談予約を入れた。次に研修所の案内を開き、入寮希望へチェックを入れる。

最後に、明日の始発列車を検索した。予約画面で座席を選ぶとき、いつもの右側ではなく、窓が左にある席を押した。

合格通知を閉じる。空のカップは、持ち手を左へ向けたまま、カウンターでまっすぐ立っていた。