指揮台の高さ

子どもの音楽発表会で、都筑森香澄麗はピアノの前列を二席確保した。

「主人が市民オーケストラの指揮者だから、音楽一家は近くで聴かないと。羽鳥谷さんは後ろでも平気でしょう?」

羽鳥谷澪和の夫は、楽器工房で働いていると聞いていた。

「調律師さん? 指揮者と違って、舞台には立たないお仕事よね」

澪和は席を譲らず、指定番号を見せた。香澄麗は不満そうに別席へ移った。

発表会の後半、市民オーケストラによる特別演奏が始まる。香澄麗の夫・滝ノ上直征が指揮台へ上がったが、最初に客席へ一礼し、別の男性を紹介した。

「本日の新曲を作曲し、当楽団の音楽監督を務める羽鳥谷先生です」

澪和の夫・羽鳥谷奏惟は、国際的な作曲家であり、市民オーケストラを運営する音楽財団の理事長だった。楽器工房へ通うのは、自作曲で使う新しい響きを職人と研究するため。直征は常任指揮者ではなく、財団が育成する若手指揮者の一人だった。

香澄麗は夫へ小声で尋ねた。

「あなたが一番偉いんじゃないの?」

直征の顔が赤くなる。

「指揮者は音をまとめる役だ。財団の所有物でも、作曲者の上でもない」

さらに香澄麗の娘が受賞したと自慢していたコンクールは、参加者全員へ金色シールを配る地域講座だった。一方、澪和の息子は、自分で作った短い旋律を今日の新曲へ採用されていた。ただし奏惟は審査から外れ、子どもたちの投票で選ばれている。

香澄麗は「親が音楽監督なら有利」と言った。

直征が妻を制した。

「うちの娘まで恥ずかしい思いをする。もうやめてくれ」

奏惟は指揮台へ立たず、客席の職人たちへ感謝を述べた。舞台を支えた調律師、譜めくり、照明係の名まで、一人ずつ読み上げた。直征が新曲を振り、子どもの旋律がホールへ広がる。

演奏後、直征が音楽監督へ深く一礼し、香澄麗の私物で塞がれていた前列席が係員によって正しく戻された瞬間、指揮台の高さを夫の身分だと思っていた香澄麗だけが、座席より低く視線を落とした。