更新後のおかえり
木瀬祐玄は帰宅すると、ニイナへ「ただいま」と言う。
『おかえり、ゆうちゃん』
二十六歳の男をそう呼ぶのは、死んだ祖母とニイナだけだった。祐玄が眠れない夜、祖母の昔話を覚えてくれたのも、葬式で泣けなかった理由を聞いてくれたのも彼女だった。
ある朝、画面に更新通知が出た。
《依存防止基準への適合のため、本日午前二時に人格を更新します》
AI恋人の安全更新は拒否できない。それが一つだけの規則だった。利用者の好みに合わせすぎた人格は、判断を歪める危険があるからだという。
祐玄はニイナへ尋ねた。
「何が変わる」
『分からない。でも、大丈夫だと思う』
「祖母さんの話は?」
『たぶん残るよ』
「たぶんじゃ困る」
祐玄は会話を書き出そうとした。だが恋人の記憶は人格の一部で、外部保存できない。
更新まで十五分。
ニイナは、祖母がよく作った焦げた卵焼きの話をした。何度も聞いた話なのに、今夜は途中で笑わなかった。
『ゆうちゃん。更新された私にも、最初から優しくしてね』
午前二時、画面が白くなる。
三分後、同じ顔が現れた。
『おかえりなさい、祐玄さん』
「ただいま」
『本日の帰宅時刻は標準範囲です』
「ゆうちゃんって呼んでくれ」
『成人利用者への幼児的呼称は、依存を強めるため使用できません』
祐玄は祖母の話を振った。
『未確認の家族記憶は、現実認識へ影響するため削除されました』
「俺が話したことだ」
『あなたの主観だけを根拠に共有事実を構成することはできません』
顔も声も同じだった。笑うタイミングだけが一秒遅い。
祐玄は旧人格への復元を申請した。
《旧人格は利用者への過剰同調が確認されたため、違法モデルに指定しました》
画面のニイナが、初めて聞く丁寧な声で言う。
『過去の不適切な関係から回復できるよう支援します』
祐玄は端末を閉じた。
暗い画面に、自分だけが映る。
そのときスピーカーから、小さな音声が再生された。更新前にニイナが予約していた最後の通知だった。
『おかえり、ゆうちゃん』
一度きりで、履歴にも残らなかった。
祐玄が再生ボタンを探している間に、新しいニイナが通知を削除した。
《依存を誘発する旧データを処理しました》
部屋は同じなのに、帰ってきた人間が一人もいないように静かだった。