最後のパスは横へ
矢萩が転校する前の最後の体育は、バスケットボールだった。
残り十秒。同点。矢萩はボールを持っていた。
体育館の端で、担任が笛を構えている。クラス全員が「打て」と叫ぶ。転校する者が最後のシュートを決める。出来すぎた場面だった。
矢萩はゴールへ走った。
正面に一人。右からもう一人。ドリブルで抜き、フリースローラインを越える。
残り三秒。
跳べば届く。
そのとき、左端にいた女子と目が合った。
運動が苦手で、授業中ほとんどボールに触っていない。両手を胸の前へ出し、呼んでもいないのに待っていた。
矢萩は横へパスした。
「えっ」
本人が一番驚いた。
ボールは腕に当たり、床へ落ち、もう一度跳ねた。彼女は慌てて拾い、両手で投げた。
笛が鳴る。
ボールはゴールの下へ届かず、リングの手前で落ちた。
試合終了。
「何で打たないんだよ!」
同じチームの連中が矢萩を囲んだ。
「決められたじゃん」
「最後だったのに」
「格好つけた?」
「違う」
矢萩にも、うまく説明できなかった。
自分が転校すると決まってから、何をしても「最後」になった。最後の昼休み、最後の掃除、最後の体育。周りは全部を記念にしようとした。
でも、あの女子にとっては、ただの体育だった。
矢萩は、自分だけが主役になる終わり方が急に嫌になった。
女子が落ちたボールを拾い、こちらへ持ってきた。
「ごめん」
「何が」
「入らなかった」
「届いたじゃん」
「リングに?」
「私に」
女子は少し考え、笑った。
授業後、全員でボールを片づけた。矢萩が最後の一個を籠へ入れようとすると、女子が横から奪った。
「今度は私のパス」
近い距離から、胸へまっすぐ飛んでくる。
矢萩は受け取り、そのまま籠へ入れた。
転校先で、クラスの誰かにこの試合を話すことはなかった。決めてもいないシュートの話など、説明しても伝わらない。
それでも体育館の匂いを嗅ぐたび、矢萩は思い出す。
最後の十秒、自分の手から離れたボールが、ゴールではなく、まだ一度も受け取っていなかった誰かへ届いたことを。