朴葉味噌の小さな火

寒川一澄は、恋人と母のどちらを選ぶかと聞かれたことは一度もない。

 それでも、結果として恋人は去った。

 一人暮らしの母が腰を悪くしてから、一澄は週末ごとに実家へ通った。恋人との旅行を二度取りやめ、同棲の話を止めた。彼女は手伝うと言ったが、一澄は「家のことだから」と断った。

「あなたの家の外で待つのに疲れた」

 彼女は一度だけ、母の好物を持って実家まで来たことがある。一澄は玄関先で受け取り、「今日は休んで」と帰した。母に恋人だと紹介する余裕がなかった、と自分では思っていた。だが彼女は、余裕ができる日を待つ役にされた。

 別れ際の言葉が、耳に残っていた。

 居酒屋「杉音」は空いており、カウンターの客は一澄だけだった。冷酒を一杯頼むと、店主は朴葉味噌のきのこ焼きを卓上の小さな火へ載せた。味噌がふつふつ膨らみ、舞茸の縁から湯気が上がる。焼けた朴葉の乾いた香りに、甘い味噌と山椒の匂いが重なった。

 一澄は母を責めたくなっていた。母が転ばなければ、恋人はまだいたかもしれない。けれど母は旅行をやめろとも、毎週来いとも言っていない。「大丈夫」と繰り返す声を信用できず、一澄が全部引き受けた。

 火が弱くなり、味噌の泡が小さくなった。

「消えそうです」

「小さいままで足りる」

 店主は新しい固形燃料を足さなかった。

 母からは「明日は来なくていい」とメッセージが届いていた。一澄はいつものように「行くよ」と返しかけ、初めて手を止めた。行かないことと見捨てることを、ずっと同じ意味にしていた。

 一澄は明日の予定表を開いた。実家へ行く前に、地域包括支援センターへ電話する時間を入れる。母に介護サービスの相談をしたこと、恋人と別れたことを話す。「お母さんのせいじゃない」と最初に言う。自分の選び方の問題を、母の腰へ預けないために。

 恋人へは連絡しない。支援を頼めるようになったからといって、彼女が待っていた時間は戻らない。

 舞茸に味噌を絡めると、焦げた甘さの奥で山椒が舌を細く刺した。火は小さいのに、皿は最後まで温かかった。