柚子胡椒は別皿で
柴崎隆希が「遠灯」へ来たのは、恋人から転職の話を聞いた帰りだった。
店主はせせりを網へ並べ、小皿に柚子胡椒をほんの少しだけ置いた。
「混ぜると辛すぎるから、別だったな」
隆希は一度しか説明していない。鶏の脂を味わってから、最後に少しだけ辛さを足す。その癖を、三年ぶりの店主が覚えていた。
肉から脂が落ち、炭がぱっと鳴る。弾ける焼け音とともに香ばしい煙が立ち、皿へ移されたせせりから白い湯気が細く流れた。まず何もつけずに噛むと、弾力のある肉から熱い脂がにじんだ。
恋人は来春、ベルリンの会社へ移るという。
「一緒に来ると思ってた」と言われ、隆希は笑って「考える」と答えた。本当は行けない。仕事を捨てたくないし、言葉も分からない。だが、行けないと言えば、そのまま別れになる気がした。
恋人は、二人ならどこでも暮らせると信じている。隆希も、そう言われることが嬉しかった。だから期待を壊す役を先延ばしにした。
恋人は新しい職場の写真を見せ、二人で住めそうな地区まで調べていた。隆希は画面を見ながら、きれいだね、とだけ言った。相手の喜びを壊したくない気持ちと、自分の暮らしを手放したくない気持ちは、どちらも本物だった。どちらかを嘘にして、簡単な答えへ逃げることだけはできなかった。
箸先へ柚子胡椒をつけすぎ、舌に鋭い辛さが走った。
「一気につけるなよ」
店主が笑う。
「分かってたんですけど」
「分かってても、やる日があるな」
それ以上の意味を乗せず、店主は炭を均した。
隆希は恋人へのメッセージを開いた。
〈明日、ちゃんと話したい。僕は今のところ一緒には行けない。でも、別れたいわけでもない〉
遠距離が続くか、どちらかが考えを変えるか、答えはない。相手が「なら終わり」と言う可能性もある。それでも、考えるという曖昧な言葉で、相手だけに未来を準備させるのはやめる。
最後の一切れには柚子胡椒をつけなかった。鶏の脂は丸く甘く、そのあとから、さっきの辛さと柑橘の匂いが唇へ戻ってきた。