柴犬の足元、湯豆腐の湯気
寺町の豆腐料理店「淡雪」では、座敷の縁側に柴犬のこむぎが寝ている。
客席へ上がることはないが、冬になると縁側の硝子戸ぎりぎりまで寄り、誰かの足元を選んで丸くなる。
香坂依里が母を介護施設へ送った帰り、店に入ったのは午後三時だった。
手続きは穏やかに終わった。母は新しい部屋の窓から山が見えると喜び、職員にも笑って挨拶した。だからこそ依里は、自分だけが置き去りにしたような顔をしていることが恥ずかしかった。
「湯豆腐、一人前」
店主の千弦は、土鍋と小さな薬味皿を運んだ。昆布の浮いた湯の中で、白い豆腐が静かに揺れている。
「お母さま、どうでした」
「元気でした。私より」
「それはよかった」
「よくないんです。よかったのに、ほっとした自分が嫌で」
千弦は柚子皮を細く刻みながら、すぐには答えなかった。
依里は網杓子で豆腐をすくった。角が崩れないよう慎重に器へ移し、葱と鰹節をのせる。口に入れると、熱は穏やかで、大豆の甘さがあとから来た。
硝子戸の向こうで、こむぎが鼻先を前足へ埋める。依里の足元を選んだらしい。
「こむぎも、子犬を産んだことがあるんです」
千弦が言った。
「みんな別の家へ行きました。最後の一匹を渡した日は、ずっと門を見てましたよ」
「かわいそう」
「でも翌朝、ごはんを二杯食べました」
依里は少し笑った。
「犬は薄情ですね」
「ちゃんと寂しがって、ちゃんと腹も減るんです」
母の世話が嫌だったわけではない。夜中に何度も起きることも、同じ話を聞くことも、できる限り続けたかった。ただ、朝まで眠りたいと思った日があった。その願いが今日かなったことに、罪悪感が追いついてきた。
「ほっとしていいんでしょうか」
「豆腐を冷ましてから食べても、愛情は減りませんよ」
千弦は鍋の火を弱めた。
「熱すぎるものを持ち続けたら、手を離してしまうでしょう」
依里は二つ目をすくい、今度は急がず湯を切った。柚子の香りが湯気の中でほどける。
帰りに施設へ電話すると、母は夕食の献立を楽しそうに話した。依里は「また日曜に行くね」と言い、声が震えないまま通話を終えた。
店を出ると、こむぎが硝子戸の内側で立ち上がった。見送りは三歩だけで、すぐ温かな場所へ戻る。
依里の掌には土鍋の熱がまだ残っていた。夕暮れの寺町には、豆腐と昆布と柚子の、淡い匂いが漂っていた。