校了前の赤い線

翻訳会社で働く由良は、共有フォルダに置かれた見慣れない文書を開いて凍りついた。

ファイル名は「第七章_校了前」。中身は、由良が「羽白」の名で書いている同人小説だった。昨夜、自宅用の原稿を誤って会社の同期フォルダへ保存したらしい。文章には自分で入れた赤字がびっしり残っている。

しかも更新履歴には、同僚の閲覧記録が一件あった。

由良はファイルを削除した。だが昼休み、閲覧者だった同僚が隣の席へ来た。

「朝の文書、機密じゃないよね」

「私物です。忘れて」

「もう消えてた。バックアップからも削除申請しておいた」

仕事上の事故として処理してくれたことに安堵しながら、由良は顔を上げられない。

「読んだ?」

「冒頭だけ。誤送信か確認する必要があったから」

最悪だと思った。休日に書いているのは、架空の騎士二人の恋愛小説だ。翻訳文では一語の揺れにも厳しい自分が、そんなものを書いていると知られた。仕事の文章は正確で、趣味の文章は未熟だと、勝手に上下をつけていた。

同僚は小さな付箋を一枚置いた。

《「帰れない」より「帰らない」のほうが、この人物らしい》

原稿の赤字と同じ箇所だった。

「勝手に直すつもりはない。ただ、翻訳のとき由良さんがよく言うでしょう。選べない人と、選ばない人は違うって」

由良は付箋を見た。

職場の自分と羽白は、別人にしておきたかった。だが言葉の選び方まで切り離せるはずがない。どちらも、自分が辞書を引き、声に出し、何度も迷って選んだ文章だった。赤字の色まで同じなのは、別人になりきれなかった証拠ではなく、同じ手で直してきた証拠だった。

「変じゃなかった?」

「私の好みかどうかと、変かどうかは別。最後まで読みたいとは思った」

同僚はそれ以上聞かず、自席へ戻った。

帰宅後、由良は原稿を開いた。問題の台詞に引かれた赤線を消し、「帰らない」と打ち直す。

奥付の著者紹介には、これまで《会社員。趣味は読書》とだけ書いていた。

少し考え、《平日は言葉を訳し、夜は物語を書く》に変える。

保存ボタンを押すと、校了前の赤い線が一本だけ、きれいに消えた。