棺の中の一分
埋葬の鐘まで、あと十分だった。
棺の中には、喉を切られた役人カイラドが眠っている。彼だけが公金横領の黒幕を知っていた。葬儀人ヴェルダは蓋へ悪魔トメルの印を描いた。
死者を一分だけ起こす代わりに、契約者の幼年期の記憶を一年分差し出す。それがトメルの条件だった。
「一分で足りる」
「死者は、最初の三十秒を息の仕方を思い出すのに使う」
ヴェルダは二年を差し出した。
棺が軋み、カイラドの目が開いた。彼は空気を求めて喉を鳴らす。傷から声が漏れない。
「黒幕の名を」
死者の指が動き、棺の内側へ一文字だけ書いたところで、二分が終わった。
ヴェルダの記憶から、四歳と五歳が消えた。雨の日に誰かと歌ったことだけが、歌詞のない旋律になって残る。
「続ける」
さらに三年。
カイラドが再び起き、指で二文字目、三文字目を書く。だが名ではなく、倉庫の番号だった。証拠の在処を伝えようとしている。
次の二年で、隠し鍵の場所。
次の三年で、黒幕が葬列に紛れていると分かった。
棺を囲む参列者の中で、一人だけ退路を確かめた男がいる。財務官だ。
ヴェルダは最後に五年を差し出した。幼年期のすべてだった。
死者は起き上がり、財務官を指さした。
「彼だ」
裂けた喉から、今度は確かに声が出た。
衛兵が財務官を拘束する。男の懐から倉庫の鍵と偽造印が見つかった。カイラドは役目を終え、安らかな顔で棺へ戻った。
参列者がヴェルダへ感謝し、老女が泣きながら抱きしめた。
「よくやったね。おまえが小さいころから、強情な子だった」
ヴェルダは腕の中で固まった。
老女の顔に見覚えがない。胸元には、自分と同じ銀の飾りが下がっている。それが母の形見を半分ずつ持ったものだと、もう知らない。
葬儀帳には《葬儀人ヴェルダ》と自分の筆跡がある。けれど、文字を見ても、その名へ続く幼い道が一本もない。生まれた家も、最初に覚えた歌も、なぜ死者へ情を持つのかも消えていた。
トメルが棺の下から囁く。
「死者には一分を返した。おまえからは十五年をもらった」
ヴェルダは母らしい老女から離れ、葬列の先頭へ立った。
黒幕は捕まり、死者の名誉は戻った。
だが棺を墓まで運んだ女には、自分がどこから歩いてきたのかだけが、最後まで戻らなかった。